〜〜Zephyranthes〜〜
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「……ツヴァイ。仕事だ」
遠くで女の声が聞こえる。
……仕事だって? やめてくれ、俺は殺し屋になりたくてなったんじゃない
んだ。
玲二は、かぶっていた毛布の中に頭を埋めた。
「おい、ツヴァイ! 何やってんだ、早く出てこい!」
女の声が大きくなった。
玲二が以前から使っているアパートの一室。玲二の、ではない。名義上の所
有者はウォレス=楊。
”それもそうか……”
自分で自分を嘲る。確かにそうだ。この国に吾妻玲二という人間は存在しな
い。いや、してはならないのだ。
自分はツヴァイ。吾妻玲二でもウォレス=楊でもない、ただの殺し屋。
それでいいじゃないか。そう決めたはずだ。エレンが居ない世界に、吾妻玲
二がいる必要は全くない。
玲二は自分にそう言い聞かせ、重い身体を引きずりながらベッドを出た。
ゆっくりと、先ほどから何者かが外からがんがん叩いているドアを開ける。
「遅いじゃねぇか、ツヴァイ――」
そう言いながら部屋に飛び込んできたのは、黒人の女。だが、彼女も玲二の
様子を見てその場に踏みとどまる。
「……どうした、ツヴァイ。具合でも悪いのか?」
「……いや」
心配そうに聞いてくる女に短く答え、部屋の中に戻る。
女は一つ舌打ちして、玲二に続いて来る。
そして、部屋の真ん中で玲二は女の方に向き直った。
「……で、リズィ。今度はどんな任務だ?」
Endless Nightmare
「よろしいのですか? ミスタ・マグワイア」
執務室兼応接室、と言った所か。
部屋中に嫌みでないほどに装飾が施された部屋で、スーツを着こなしたキャ
リアウーマン然とした女と、どこか気取った仕草で煙管をゆらす長髪の男が向
き合っていた。
「なにがだね?」
マグワイアは、目の前の女――クロウディアを面倒くさそうに一瞥する。
「あの少年――ツヴァイにファントムの称号を襲名させたこと、です」
「そして、それを君の直属においていることが――かね?」
クロウディアの言葉に、マグワイアが冷ややかに付け足す。
しかし、クロウディアはマグワイアの皮肉ともとれる発言をあっさりと受け
流した。
「率直に言えば、そうです。私のような者に組織最高のヒットマンであるファ
ントムを従わせる。私が彼を使って離反する――その可能性は考えておられな
いのですか?」
「君にそのつもりがあるのかね?」
「まさか」
マグワイアがさりげなく――ともすれば本音で答えてしまいそうなほど――
発した問いかけに、クロウディアもまたポーカーフェイスで答える。
「私が今の地位にあるのはインフェルノとそれを作ったミスタ・マグワイアの
おかげですわ。それを裏切るなどということを、出来る分けが有りません。そ
んな事をして利が得られるとも思えませんし」
マグワイアはその答えを聞いても、しばらくクロウディアの顔を見据えてい
た。クロウディアは全てを見透かすかのようなマグワイアの眼光に耐え、努め
て無表情を装った。
こういうとき、露骨に感謝しているような素振りを見せれば、それはかえっ
て白々しく映る。裏の世界は計算づくで成り立っている。計算の結果、インフ
ェルノにいることが望ましいと判断したように思わせた方が信憑性は上がる。
そのことを、クロウディアはよくわきまえていた。
マグワイアもそう判断したのだろう、クロウディアから視線を外すと紫煙を
吐き出しながら言った。
「ファントムは単独で行動するとはいえ、インフェルノの実動戦力であること
に変わりはない。組織の戦闘関係を担う君が指揮を執るのは当然のことだろう」
「しかし…」
「まぁ、君の心配する気持ちも分からなくはない……何せ”お気に入り”の様
だからね。何か有っては……おっと、すまない、無粋だったかな?」
「……」
お気に入りという部分だけ殊更強調して言うマグワイア。明らかにクロウデ
ィアを揶揄する響きを持たせた発言である。この男の悪い癖…話す相手を見下
し、おちょくる性癖が鎌首をもたげていた。
その言葉を聞いてほんの一瞬だが、クロウディアの顔が陰る。その様子を確
認し、マグワイアは冷笑を湛えつつ付け足した。
「だが……だからこそ、少しは彼を信頼してはどうかね? 君の立場、そして
旧ファントムを打ち破った彼の実力……この2つの力を使ってより一層インフ
ェルノを盛り立ててくれないか? 君の下にファントムを付けた理由……それ
を良く考えて欲しい」
「……」
「どうかね? クロウディア…」
”この男……どこまで知っている?”
何かを感づいているのか、それとも、ただの鎌かけか。どちらにしろ、これ
以上反論を行うのは自分にとっても都合が悪くなる。そう思ったクロウディア
は……
僅かに表情を堅くしながら、こう答えた。
「……わかりました」
「ほれ、今日のターゲットの写真とプロフィール。良く読んどけよ」
「……あぁ。いつもすまないな、リズィ」
簡単なレポートを受け取りつつ、言葉とはまったく逆の答をツヴァイは思う。
こんな物欲しくない、要らない、読みたくも無い。殺しなんてまっぴらだ。
心の奥底で、玲二と呼ばれる自分はそう思っている。
だが……
「東側の中堅マフィアのボス、か……殺る場所は?」
「奴さんは今日郊外のゴルフ場に接待ゴルフをやりにいくらしい。上の指示じ
ゃ、この時に殺せとよ」
「なんでまた。ゴルフ場なんて視界が開けてて暗殺にゃ向いてないだろ?」
「アタシもそう思うがね。問題はその時の面子……接待相手は、ターゲットと
一悶着が有った組のボスらしい。この接待はその和解の意味も有るんだとよ」
「……なるほどな。その目の前で殺れば、あわよくば共倒れを誘えるって訳か」
頭の中では冷静にプランを練っている自分が居る。殺す算段を練っている、
”ツヴァイ”が。リズィとの受け答えの中、”ツヴァイ”はターゲットをどう
殺せば良いかのシュミレーションを冷静に行っていた。
「そういうことだ。インフェルノも案外考え方がせこいぜ」
「それは言いっこ無しだと思うぜ、リズィ。インフェルノはそういう組織だろ?」
「はは、ちげぇねえ。面倒な奴等を片っ端からぶっ殺して、インフェルノの都合
の良い組織を作り出す……その為の、”ぶっ殺す”をやるのがそれがアタシ達の
仕事だ」
「…………そうだな」
殺す――という言葉に引っ掛かりを覚えるツヴァイ。
その言葉を聞く度に、やはり自分はもう”玲二”ではなく殺し屋”ツヴァイ”
なのだと実感してしまう。もう二度と”玲二”には戻れないのだと思う。
だが、彼の中の”玲二”はそれを認めようとはしなかった。
「でまぁ、インファイトの暗殺は無理だと思ったからよ、狙撃って言う事にし
た。だからライフルを持って来てやったぜ。最新式って話だ」
「またか……何かと新しいのばかり廻すのは止して欲しいんだがな。熟れるの
に手間取るんだから」
「そういうなよ、これもえらい高い品だって話だぜ。それだけ期待されてるっ
てことだろ、ええ? ファントム」
豪快な笑みを浮かべてどんと背中を叩くリズィ。しかし、当のツヴァイの顔
は優れてはいなかった。
”そんな称号……欲しくはなかった”
インフェルノの本部、クロウディアに与えられた個室。個室といっても、ち
ょっとした会社の社長室程度の広さがあり、設備もなかなかの物である。この
部屋一つ取ってみても、クロウディアのインフェルノ内部での地位が窺い知れ
る。
そんな部屋の中で、当の主は押し黙ったように外を見ていた。
「……ツヴァイ……か…」
軽く呟きながら、まだあどけなさの残る少年の顔を思い浮かべる。
自分より遥かに年下の、だが自分の腹心に成る可能性を秘めた少年。類希な
る能力を持った、インフェルノ最高の暗殺者――ファントムでもある少年。
クロウディア自身が秘めている計画の、要ともなるかもしれない少年……
しかし、クロウディアは分かっていた。今のツヴァイは苦悩していると。
「今のままの彼じゃ、使い物にならないわね…」
以前彼女が言った、獣になりきれていないツヴァイ。その原因の一端が自分
にあるという事をクロウディアは認識している。彼に”玲二”を思い出させる
きっかけを与えたのが他でもない、クロウディア自身だったからだ。
「彼の記憶を戻したのは早計だったかしら? でも、ああしなければ…彼は私
の元に来なかったでしょうし…」
逡巡するように思いを馳せる。
彼は”本当”を知りたがっていた、だから教えた。その好意によって彼に自
分に対する恩を植え付ける事が出来るから。その恩を利用して、彼を自分の側
へと引き込めるなら。
ファントムとしての力を、最強の力を自分の物に出来るならば。
クロウディアが彼をバックアップして居た理由は其処に有った。危険を冒し
てまで彼の記憶を戻させ、そしてサイス=マスターの造反のときも彼を庇い、
守った理由は最強の手駒になり得るツヴァイを手元に置く為だ。
結果的に、ツヴァイは自分の元に来た。ここまでは計算どうりだった。だが、
若干計算違いな部分が出てしまった。”本当”を知った影響なのだろうが、人
間性まで戻ってしまっていた。つまり、ツヴァイは暗殺者としての自分に苦悩
を始めたのだ。
しかし”使えないファントム”には用はない。
クロウディアに必要なのは”最強の暗殺者・ファントム”なのだから。
「彼にはもっとファントムらしく活躍して欲しいのだけど…今のままじゃ、彼
は死んでしまうわね。いろんな意味で……」
だが――
「どうした物かしらね……ほんとに」
クロウディア自身も気付かない程度に、打算とはまた違った感情が彼女の中
に生れようとしていた。
「……静かだな……リズィ、そっちからの様子はどうだ?」
『同じだよ、静かなもんだ。他の客も殆どいねぇ。貸し切り状態って奴だな』
街から外れた森の中。その一部を切り開いて作られた一流のゴルフ場。会員
の中には上院議員の名さえ連ねている、一流に超が付くほどの施設とスタッフ
をそろえた場所だ。
しかし、一流な割には警備が杜撰だった。警備員の一人すら周りには居ない。
「まぁ……変に警備を増やして、招待客に不快感を持たせない為なんだろうが。
そもそも、黒尽くめにかこまれてゴルフって言うのも、向こうも趣味じゃない
だろうな…」
『しかしのん気だねぇ。こっちに取っちゃ好都合だがな。アンタも仕事がしや
すいだろ?』
「そうなんだがな……」
携帯用の無線機越しに、リズィが声を掛けてくる。彼女は今、ゴルフ場を一
望できる小高い丘の上に待機している。対してツヴァイの方は林の奥ばった位
置に陣取っていた。
ツヴァイの居る場所はターゲットが現われるだろうホールからはかなり離れ
ており、林の隙間からやっと青い芝が見える程度でしかない。しかし、それほ
どの位置、場所で無ければ、開けたところの多いゴルフ場でのヒットは難しい。
ツヴァイはそう考えていた。
逆に、ヒットする側のツヴァイからもターゲットが確認しづらい位置でも有
る。このミッションを成功させるには、観察役のリズィの指示が重要であった。
「頼むぜ、リズィ……こっちからは殆ど見えない。あんたの指示が頼りだ」
『プレッシャーを掛けさせないでくれよ。こっちはアンタと違って普通の人間
なんだぜ?』
「俺だって人間だよ……撃たれれば死ぬさ」
『分かってるって……まかせな。ドジりはしねぇさ』
”ほんとに頼むぜ? そもそも……俺はこんな仕事、したくないんだよ。
リズィ……”
口には出さず呟くツヴァイ。実際のところ、恐怖は感じないし、大して怖い
とも思わない。仮に見つかっても、死ぬ事にはならないだろうと客観的に分析
できる。
先ほど確認した情報では、ターゲットを含めた面子は、プレイヤーが4人と、
ガードが6人。もちろん、一旦外に出れば大勢の手下が控えているだろうし、
ガードにしても決して警戒を怠っている訳でもないだろう。
だが、よっぽど接近されたりまた囲まれたりしない限り、一人でも何とかな
る。マフィアのガードマンなど、”ファントム”から見れば所詮その程度の手
合いでしかないのだ。
だがそれとはまったく別に、”人を殺す”事に恐怖を感じている”玲二”が
いる。
”一人殺せば一人の……二人殺せば二人の命を背負う事になる……殺した分だ
け俺の背中の重さがふえ、手が朱に染まって行く……”
昔は、そんな事を気にしてはいなかった。まだ玲二を取り戻していない頃の
ツヴァイなら、何人殺めようと毛の先ほども心には留めていなかっただろう。
だが今は違う。戻ってきた”玲二”の心が、それを認識する。人殺しという
事実に叫び声を上げ、嗚咽を漏らす。
耐えられない。耐えたくも、無い。
「けど……いまさら何処へいけるんだ。俺は……インフェルノ以外の、何処へ」
『あん? 何か言ったか?』
「っ……いや、何でも無いさ」
おもわず口を付いてしまった言葉……しかし、それが今のツヴァイの全てを
物語っている。行く当ても無く、帰る家も、国すらなく。自らの戸籍すら偽り、
元々の存在はすでに抹消されている自分。
そんな自分に、行く場所なんて他にあるのか。ある分けない。もう、自分は
ツヴァイとして……いや、ファントムとして生きていくしか他に無いのだ。殺
すのが嫌でも、暗殺者になりたく無くとも、生きる為には、もうこうするしか
残されてはいないのだから。
”……ほんとに……そうか……?”
そう自分に問い掛けても、答は見つからなかった。
「しかしまぁ――大丈夫なのかね、ツヴァイの奴は」
無線を口元から離し、リズィがそう一人ごちる。双眼鏡越しに彼の位置を確
認しようとしたが、見つからない。だからという訳でも無いが……ここ最近考
える事が鎌首をもたげてきた。
ツヴァイの彼の様子が気に成っているのだ。リズィから見れば明らかに疲れ
た風であり、何処か気負った風にも見える。弟分な彼のことが少々気に掛って
しまうのだ。
もっとも名目上は、ツヴァイはリズィより格が上という事になっている。イ
ンフェルノ最高の暗殺者の称号、ファントムの名を継いでいるのだから当り前
と言える。
しかし姉御肌なリズィは、何かとツヴァイを気に掛けてやっていた。正確に
は、気に掛けるようになった。
「サイスのクソ野郎がいなくなってからのアイツは、何処か変な気がするんだ
がな……」
サイス=マスターの造反……その裏にあった、ツヴァイにとって衝撃的な事
実を、リズィは知らない。だが何らか変化――事件があったのではないか、と
リズィは予測していた。
それ以前とそれ以後では、明らかにツヴァイの様子が異なっていたからだ。
以前のツヴァイは、それこそ近寄るだけで殺されるのではないかという殺気
を身に纏っていた。しかし、今のツヴァイにはそれが無い。何処にでもいそう
なハイティーンの餓鬼にしか見えない。リズィから見れば、まるで別人のよう
な変化だった。
実際……ほぼ別人のような物であったのだが。
「ファントムの肩書きに緊張してるのかね。流石に上からの……特にクロウデ
ィアからの期待もひとしおだからな……それとも……」
ふ……と、直感めいたヴィジョンがリズィに頭に浮かぶ。
「――ふ、まさかな。そんな訳ねえよな」
僅かな笑みと共に、ふっと浮かんだ考えを振り払う。そんな事はあるまい。
そう自分に言い聞かせるように。
”人を殺すのが嫌になってる……そんな暗殺者が何処に居るよ?”
射撃予定距離、約300m。
風、微風。風速1〜2m。
天候晴れ。気温は22度程度。
視界、不明瞭。目視での視界は、まさに針の先程度のグリーン。
ターゲットは……一人。名前その他、未確認。確認の義務も無い。
どうせ、もうすぐこの世を去るのだから……
ツヴァイはそんな事を思いながら銃をセッティングしていた。今の彼の中に
玲二は居ない。居ても邪魔になるだけなので、眠ってもらっている。皮肉な事
に、サイス=マスターの施したマインドコントロールの残り香は、ほんの僅か
ながらツヴァイにも操れた。
少なくとも、仕事中に支障がでないよう一時的に”玲二”を眠らせる程度、
には。
「晴れで風も殆ど無い……遮蔽物も多い……高速弾の方が無難だな」
ケースの中に数種類有った弾丸の中から、遠距離狙撃用の高速弾を取り出す。
実際のところ、今回の暗殺は流石のファントムにも少々骨が折れる仕事だった。
通常の狙撃は、ターゲットより高い位置、もしくは平行な位置から行うのが
常である。地球上に重力がある以上、例え高速で飛翔する弾丸といえどもその
影響を如実に受ける。しかも、ライフルなどによる遠距離射撃になると、距離
の関係からそれがより大きく出る。その為、重力の影響による弾の降下等を考
慮し、射撃位置は標的から適切に高い位置、もしくは平行な位置から行うのが
基本とされる。
しかし今回のポジショニングは下から見上げる位置にとっている。仰角はさ
ほど大きい物ではないが、それでもこの位置はライフルによる射撃には必ずし
も適しているとは言えない。
「もっといい場所が取れたらいいんだが……しかし逃走経路の関係上、ここし
かないか…」
ファントムの潜むここ以外は、完全に切り開かれた丘になっている。つまり、
高い位置から狙える代わりに丸見えになってしまう。無論そんな状況下でスナ
イプを行えば一発で位置を把握されてしまい、逃走に支障をきたす。
そのためここ――少し下った林の中――以外に、狙撃しても相手に確認され
づらい位置はなく、ここ以外逃走に最も適した位置が見当たらなかった。
なかなかに困難な仕事……だからそこファントムに回ってきたともいえる。
もっとも、当のツヴァイからしてみればどれほど困難でも確実に成功させな
ければならない仕事、な訳であるが。
”まぁ……1000m級ライフルだったら、リズィの位置からでも撃てるかな”
ふっとそんな事が頭に浮かぶ。事実、世の中のライフルには最大射程が20
00mに達する物まで有るという。
対戦車用スナイパーライフル……その名のとうりに、戦車や装甲車などを狙
う為の銃だ。
相手があいてだけにキロオーダーの射程を持つ、個人で扱う中では最大級の
銃だ。しかし、並みの人間に扱える代物ではないし、ツヴァイも見た事すらな
かった。ただ、銃の手ほどきを受けていた過去、その師から話しの上程度で聞
かされた物だ。
ズキン
銃の師……その人物を思った瞬間、ふっと、ある少女の顔が脳裏に浮かんで
消える。
同時にツヴァイの胸が僅かに痛んだ。物理的な痛みではなく、心理的な物で。
”馬鹿な……今は仕事中だ。その事は忘れろ、思い出すな……”
自分に言い聞かせるように内心で呟く。だが一度乱れた心は簡単には治らな
い。表面的な部分はともかく、深層的な部分に細波が立った。致命的では無い
にしろ、それでも影響が出てしまうかもしれない。
そんな心の小波をかき消すように、ツヴァイはライフルの銃口にサイレンサ
ーを着けた。正直なところ、サイレンサーを用いるのは得策ではない。音が消
せるかわりに、確実に飛距離と威力が低下してしまうからだ。
しかし今回のミッションを考えると、狙撃後位置を把握されればツヴァイと
いえども逃げるのは容易ではない。その為、狙撃後の安全が幾分保障されるサ
イレンサーでのスナイプを、ツヴァイは選んだ。
”そこまで必死になって生き残る価値も、本当はないんだがな……”
などと、自虐的な考えが頭を過ぎった……その時。
リズィから通信が入った。
『おい、来たぞ。準備はいいか?』
「んっ……あぁ。出来てる。だがこっちからは確認できない」
『まだ最初の奴がティーアップしているときだ。もう少し掛るなこりゃ……』
「頼むぜ、リズィ……」
『任せとけって。だが、チャンスは多くないぞ。そっちこそしっかりしろよ?』
「…………分かってる」
”今は……集中しろ”
ツヴァイはそれだけ答え、マガジンをライフルに叩き込んでスコープを覗き
込んだ。
――ガラにも無く緊張している。
――まぁこの緊張も慣れた物だが。
――ツヴァイの様な化け物と付き合ってたら、けして緊張からは開放されない。
――危険と隣り合わせ、どころではない。
――ツヴァイは危険と恋人同士の様な物だ。
――ツヴァイの近くにいればそれだけで命を狙われる。
――例えツヴァイに随伴しなくとも、あいつのやる事は常に危うい。
――それを見ているだけで十分命を削られる。
――だからこそ思う。
――奴は最強なのだと。
――危険という名の恋人は、常にツヴァイを裏切らないのだから。
「へ……アタシャそんな恋人いらねぇがな……ん?」
そうかる口を呟いた瞬間、リズィの表情に険が浮かんだ。
「……きたなぁ……」
双眼鏡の先、大体1.5km……ツヴァイが潜んでいる位置からは直線で約
400mにゴルフボールが飛んできた。残念ながら、ターゲットの弾ではない。
そう思っているうちに殆ど同じ場所にもう一個飛んで来た。カップまで10
0ヤードと無い。あと1ショットという所だ。
「ツヴァイ、そろそろだ。あと1回打ったら来る」
『分かった……だがまだ見えない』
「あぁ……もう少しだ。今他の奴の弾の所に集まってる。これを打ったら……」
そう言い掛けたとき、ちょうどターゲットのグラブが振られた。弾は綺麗な
弧を描き、グリーンへと吸い込まれる。
位置は……以外、というべきなのか流石、というべきなのか。飛んできたボ
ールは綺麗なランが出て、その位置は絶妙な物となった。
カップ側、1m強……後1パットで沈められる位置。
だがそれは、”撃たれる”のにも絶好の位置だった。その位置は、人が立て
ばツヴァイからは丸見えとなる。奇しくも、絶好のポジショニングとなった。
「ナイスショット……」
皮肉半分につぶやく。双眼鏡を覗くリズィの手にも力が入る。いよいよだ。
「……来るぞ、準備は良いか?」
『……』
だが、ツヴァイは答えない。無線のスイッチは入っている。それどころか、
向こう側の草いきれすら聞こえる。なのにツヴァイは答えてこない。
「……おい。ツヴァイ。聞いてるのか? 準備はどうした?」
『…………』
「ツヴァイ、聞いてるのかっ? 返事をしろっ」
焦るリズィの声を無視するようにツヴァイは押し黙り、そして……
ターゲットはグリーンへと――
何も聞こえない。何も見えない。何も感じない。
ただ、3つ……自分の心音、スコープの先の人影、そして、手に持つ銃の冷
たさ。それだけを感じる。
『ツヴァイ、聞いてるのかっ? 返事をしろっ』
誰かの声が聞こえる。だが、ツヴァイの思考はそれを認識しない。
ただ一点……スコープの先にのみ集中する。
心音が強く、大きくなる。思考が引き伸ばされ、スコープの中の色が消えて
ゆく。銃の冷たさが染み入り、隅々までに意識が張り巡らされる。
スコープ中央に人が来た。
データバンクに有る、狙撃対象だと脳が認識する。
数瞬、心音が止まり肉体の凝りが弛緩して、余分な力が抜け落ちた。
銃と自分の腕が一体化したような感覚。神経が銃に伝わるような錯覚。
ターゲットの動きに合わせ、銃を支える手が自然と位置を修正した。
極々自然に、トリガーに掛けた指が動き始める。
一切の思考も、感情もなく。過去も現在も、そして未来も思う事はない。
ただひとつ…視線の先の相手を撃ち殺す事にのみ、全てが集中してくる。
ただ一瞬が引き伸ばされるように長くなり、同時に長い時間がこの一瞬へと
圧縮される、妙な感覚。
その、長くも短い瞬間。
ツヴァイは間違い無く、時間を支配していた。
『ツヴァァイ!!』
草木が揺れんばかりの音量で、リズィの怒号が響いた瞬間――
ツヴァイの指が、柔らかくトリガーをひき切った。
シュンッ!
サイレンサー越しの鈍く深い音とともに、その弾丸は森の中を駆け抜け――
狙い違わず、ターゲットの耳に飛び込む。
狙撃用のライフル弾はそこでは止まらず、耳道を通り抜け、鼓膜を突き破り、
耳腔の中を突破して、脳下垂体をかすめ、反対の側頭部から飛び出る。
通る最中に弾丸の持つ運動エネルギーの一部が位置エネルギーへと転じ、頭
の中をズタズタに引き裂いていった。
脳髄はめちゃくちゃに破壊され、それでも飽き足りないエネルギーは外へと
向けて発散しようとする。
そして男の頭は、まるで西瓜の様に爆ぜて割れた。
その一部始終をスコープ越しに見たファントムは、肩に何か重い物が圧し掛
かる感覚に囚われながら、1人ごちる。
「ターゲットは即死……任務完了……」
言いつつ、ファントムはチェンバーに残った空の薬莢をイジェクトし、次弾
を装填する。そうする必要は無いのだが、そこまでの動作が癖になっている。
遠くではそろそろ悲鳴やら奇声やら怒号やらが聞こえてきた。思惑どうりに
同士討ちが始まりそうだ。
程なくして上がる銃声。そして悲鳴。青々としたグリーンの上は、まるで地
獄絵図のような血みどろの風景へと変わって行く。
「リズィ、どうなった?」
残りの連中をどうしようかと迷ったファントムは、思い出した用に先ほどま
で半ば無視していた携帯無線へと語り掛ける。
『……ったく、聞こえてるならそう言えってんだよっ。ちょっと待ってな』
先程無視された事の怒りをぶつけた後、リズィは数瞬黙ってから状況を報告
する。
『おーおー……激しく殺り合ってるぜ。こりゃ好都合だ。ここまで思惑道理だ
と気持ちが良いくらいだねぇ……』
「掃討の必要は有るか?」
『んにゃ、いいんじゃねぇか? ゲスト側のボスももうおっちんじまってるぜ。
雑魚どもが殺りあってるだけだ。見つからないうちにさっさとずらかったほう
が良い』
「わかった。予定の位置へ向うから、フォローを頼む」
『あいよっ』
勢い良く答えながら乱暴に無線を切って、リズィは車へと向う。
ファントムの方も辺りに注意しつつ、素早く予定の合流点へ走った。
”願わくば、今日はもう人を殺さないで済むように……”
そんな思いを心の中に擁きつつ。
「んく、んく……ぷはー、やっぱ仕事の後はこの一杯だよなぁ。ほら、ツヴァ
イ、お前も飲みなよ」
「……俺はあんたほど酒は強くないんだよ……」
「けっ、やわな肝臓してやがるな……マスター、もう一杯だ」
あの後…… 拍子抜けなほど何事も無く脱出し、形式道理の報告をインフェ
ルノに行った後。
リズィとツヴァイはいつものバーで飲んでいた。
2人とも中ジョッキを片手にカウンターの端に陣取っている。
暗黙の了解で、この店のその席は2人の特等席と化しているのだ。
”仕事の後は酒を飲む。仕事で浴びた薄汚れたきたねぇ血を酒で洗い落とすん
だよ。だから嫌でも飲みな”
初めてこの店に連れてこられたとき、ツヴァイはそうリズィに言われた。
それから事ある毎にリズィにつれられては、この店に来るようになった。
元々下戸だったツヴァイも酒豪のリズィに当てられ、今ではそこそここなせ
る様になってしまったほどだ。
”なれってのは恐ろしいな……”
飲み続けるという訓練を積めば、酒にも強くなれるものなのか。
などと、ツヴァイはこの店に来るたびに思うものだ。
もっとも、美味いと感じて飲める酒は、ビールくらいしかなかったのだが。
「でもよ、ここのところのお前はすげーよな」
「なにがだよ」
「何がってそりゃ、仕事だよ仕事。下りてきた司令を全部カンペキにこなして
るじゃねーか。流石はファントム様だなぁ」
「――そんなこと、ないさ」
「おーおー、謙遜するねぇ、このこの」
少し酔ってきたのか、リズィーぱしぱしとツヴァイの背中を叩く。
その衝撃でツヴァイの持つジョッキからビールが零れそうになる。
「お、おい、そんなに叩くなよ、酒が零れるだろ?」
「あん? んなの零れたらまた注文すりゃいいだろ。マスター、次だ次っ!」
「……ったくこの飲んだくれ」
「あっはは。うぃっく……でもよ、お前に任せりゃ本当になんでもこなしそう
だよな」
「そんなこと無いさ……出来ることと出来ないことが有る。ファントムと呼ば
れたって所詮は人間さ」
「そうかねぇ、アタシにはそう思えないけどなぁ」
「……思うだけなら自由さ」
ぐいっとビールの入ったクラスを明けながら、ツヴァイが呟く。
「実際……俺がファントムの名前を貰ったあの夜、俺はサイスを殺し損ねた。
殺せと言われた相手を、俺は一回やり損ねている、それだけでも凄くない証明
にならないか?」
「あれはあっちに初代ファントムが居たからじゃねえのか? それに、その後
の任務は完遂率100%じゃないか。十分凄いと思うがね」
「……さぁな。俺はアインに優ってるとは、思えないよ……事実アインはサイ
スを守り通した……身を挺してな。完璧って言うなら彼女のことを言うさ…」
内心思ったこととは、少しずれた物が口から出る。
”彼女をアインとは呼びたくない”
”彼女がサイスを守ったなんて思いたくない”
――なにより。
「でもよ、その初代ファントムを殺したのは、アンタじゃねぇか、それだけで
もすげえさ」
”彼女が……エレンが死んだなんて、思いたくない”
「ご苦労様……報告はリズィから受けたわ。流石ね、ファントム……」
「たいした事じゃないです。任務ですから……」
リズィと別れた後、ツヴァイはクロウディアに個人的に呼び出されていた。
別段珍しい事でもない。むしろ呼び出されない事の方が珍しいほどだ。
仕事の後には直接報告する。それがクロウディアがツヴァイに科せた一つの
約束だった。
「ターゲットを含め、あの2つの組織は上部が軒並み死んで、もうガタガタよ。
これで東側の方も幾分やりやすくなったでしょう…貴方の功績は大きいわよ?」
「……そう、ですか……」
いつもの様にクロウディアはソファーにもたれ掛かり、ツヴァイはその横に
座っていた。
そして、いつもの様にクロウディアはツヴァイの頭を優しく胸に擁き込んで
いた。
どこか不思議な光景だった。
「……嬉しくないの? 褒めてあげてるのに。これで貴方の株はまた上がった
わ。ファントムとしての名も……」
「嬉しい、です……よ」
からかう口調のクロウディアに対し、ツヴァイは絞り出すように答える。
少しでも元気付けられれば……そんな感情を滲ませるクロウディアの声も、
ツヴァイには届いていないようだった。
「……貴方はいつもそうね……仕事が終わる度に、泣きそうになって帰ってく
る。それじゃファントムの名が泣くわよ?」
「泣いて、なんか……居ません」
確かに、ツヴァイの目には涙などは浮かんで居なかった。
だがその肩は大きく震え、表情も焦燥しきっていた。
「泣いてなんか……居ませんよ……クロウディア。俺は別に……」
気にしていない、と言う単語が脳裏に浮かぶが、声にはならなかった。
変わりに、震えるような鳴咽だけが口から零れる。
「…………、…………」
必死に隠そうとして、でも隠しきれないツヴァイの嗚咽を聞いて…
クロウディアはツヴァイを抱き込む腕に力を込める。
そして、普段のクロウディアからは想像できないほど優しい声で、言った。
「……玲二……」
その名を呼ばれた瞬間、ツヴァイの身体がビクッと震えた。
「泣いて、良いのよ? もう……」
「…………、…………」
「もう、玲二に戻って良いのよ……もう、ファントムやツヴァイじゃなくて…」
クロウディアがあやす様に囁く。
彼女に出来る精一杯の慈愛と、彼女自身も気付いていない思慕の情を込めて。
「……く……」
クロウディアの声に押される様に……ファントムの口から、声が漏れる。
「……ぅ……ぁ……」
重々しく、そして悲痛な鳴咽が……ファントムとして犯した罪に苛まれる、
玲二の苦悩が、その口から零れ落ちる。
「ぁ……あぁっ……」
ツヴァイは、泣いた……
だが、涙だけは、流さなかった……
流すべき涙は、もう彼の中に残ってはいなかった。
「ねえ、玲二……貴方は”玲二”に戻りたい?」
緩く照明の落とされた寝室。大き目のツインベッド。
その上でまどろむ、裸の男と女。
その女の方が、男の方に問い掛けていた。
「……さあ、どうなんでしょうね。正直、分かりません」
ボーッと天井を眺めながら、ツヴァイは答える。
今更、玲二に戻れるのだろうか。
あの頃の――普通の青年だった自分に、戻れるのか。
何度となく自分に問い掛けたものだ。
でも、答えは出てない。
いや、既に出てしまっているはずなのに、それを認めたくないだけなのかも
しれない。
「でも、ファントムとして仕事を終えた後の貴方は、いつも泣いてる…女々し
い、なんて言わないけど、ファントムらしくはないわね」
「……かもしれませんね、自分でもそう思います」
仕事の後には泣く……そんな暗殺者が居て良いのだろうかと自問したことは
一度や二度ですまない。
昔、完全にツヴァイだった頃は、そんな事は考えもしなかった。
だが今は……玲二としての記憶が戻ってしまった今は、その玲二が泣くのだ。
罪の重さに耐え兼ねてなのだろうか。それとも人が死んだ事実が悲しいのだ
ろうか。人殺しが出来てしまう自分が怖いからか。
理由は、どれでも有りそうで、どれでもなさそうだった。
ただ、涙が出る……嗚咽が漏れる……それを、クロウディアが慰めてくれる。
そんな事が何度繰り返されただろうか。
そんな事を繰り返しても、クロウディアはツヴァイを見捨てなかった。
そこに打算がある事は、ツヴァイ自身も知っていた。だが、それでも受け止
めてくれるクロウディアには、深く感謝していた。
彼女が居てくれるからこそ、自分は未だ”自分”を保っていられるのだと実
感している。
クロウディアが守ってくれなければ、ツヴァイはとっくの昔に壊れていただ
ろう。
「でも。最近は未だマシになったと思いますけどね……初めの頃は、次の日ま
で尾を引いてた……今は寝るころにはもう平気です。そのうち泣くなんてみっ
ともない事、無くなりますよ」
「くす、そうね。あの時は困ったわ。次の仕事が出来るのかって心配したわよ」
「……どこまで本当なんですか?」
「さぁ…」
婉然と微笑みながら、クロウディアは問いかけを躱した。
本当に心配していたのかもしれないし、いつ見限ろうかと考えていたのかも
しれない。
クロウディアの心は、クロウディアにしか分からない…ツヴァイはそう思う。
そしてツヴァイの心も、ツヴァイにしか分からない……
だからお互いに本当は何を考えているか、多分分かっていないとツヴァイは
思う。
だが、それで良かった……
「でもね玲二。無理は、しなくて良いのよ? 貴方が玲二に戻りたいというの
なら、わたしは――」
「……大丈夫です。無理なんて、してません……」
「……」
「俺はインフェルノ最強の暗殺者――ファントムですから」
”とんだ嘘つきだ…我ながら無理をしているな…”
そう思いつつも、ツヴァイはそう言いきっていた。
ゆるゆると夜が明ける。
窓から差し込む日差しは、今日も晴天だと告げているかのようだった。
何処かで鳥のさえずりが聞こえ、空いた窓からは清々しい風が吹いていた。
朝日独特の柔らかな光は、ツヴァイの顔を照らし、横に眠るクロウディアは
朝日を浴びて幸せそうにまどろんでいる。
”まるで夢の様な、現実の朝”
「――眩しい、なぁ――」
クロウディアより早く目が覚めたツヴァイは、しみじみと呟いた。
本当に眩しかったわけではない。
ただ、自分にとっては眩しい……世間の闇に沈んだ自分にとって、世間の表
を照らす太陽は、まぶしすぎた。
もう二度と帰ることの出来ない、朝の爽やかな日……
朝普通に目を覚まし、在り来たりな朝食を摂り、そして面白くも無い学校に
行く。
ごく普通の日本人の学生……そんな、昔の自分。
今の自分とは対極に有る、普通の青年の朝。
吾妻玲二という青年の、日常。
それを思い出してしまうから。
だからツヴァイは……何時の間にか朝日が嫌いになっていた。
「……ふっ。今更感傷に浸ってるのか? 玲二さんよ……」
自虐的に、ツヴァイはそう呟いた。
いくら懐かしんでも戻ることは出来ない……
たとえインフェルノから逃げ出せても、自分の背負ったものは消えはしない。
たとえ自由になれても、闇の住人として暗躍した記憶を消すことは出来ない。
だから……
ツヴァイはもう、普通の生活を普通に過ごすことが出来なくなっていた。
「……朝日は、嫌いだ……余計な考えばかり浮かびやがる」
不機嫌そうに破棄捨て、ツヴァイは服を纏う。
スラックスにカジュアルスーツ。
そして、懐にはコルトパイソン。
懐に仕舞った銃の重みが、否応なく自分はファントムでありツヴァイであり、
玲二ではないことを訴えてきた。
――人を殺せる道具を持ち、それを使うお前は人殺し以外何者でもない――
――お前はツヴァイであり、インフェルノの暗殺者、ファントムだ――
銃の重みは、そう呟いているようだった。
”そう……自分はもうツヴァイで良い……ファントムで良い”
”エレンのいない世界に……玲二は必要ないから”
誰にも……クロウディアにも語らない真実が、心の奥底からにじみ出る。
だが、それなら何故自分は未だファントムで居ようとするのだろうか。
何の為に? 何を考えて? 何を望んで?
ツヴァイ自身、それは分からなかった。
ただ……いつか。
ツヴァイとしてファントムとして、そして玲二を抱えて生きて行くその先に。
もういちど、彼女との邂逅が有ると感じて。
彼女との邂逅を望んで。
いつの日かエレンとまみえる事を夢見て。
自分がまだ生きようとしているのは、その辺りが理由かもしれない……
ツヴァイはそう思った。
「……クロウディア……先に行くよ」
頭に湧いた感傷を振りきり、ツヴァイはクロウディア邸を後にする。
センチな感傷は、この家の中だけで良い。
外に出てしまえば、全て忘れるのだ。
また元に、ツヴァイに――ファントムに戻るのだ。
「また。今日が始まるか……」
つかの間の夜……ツヴァイは玲二に戻り、そして朝にはツヴァイに戻る……
また、ファントムとしての一日が、始まるのだ。
それは、覚めない夢――
永遠の悪夢なのか――
それとも――
”……エレン……”
覚めない悪夢の、更に向こうへ