〜〜Zephyranthes〜〜
戻る
チチチ……
チュン、チュチュン……
鳥の鳴き声が聞こえる。
「ん……あ……あさ…」
もう、朝が来た…
もう、起きなきゃいけない時間。
「…………」
ぼんやりとまぶたが開き、真っ青な空が窓越しに見えた。
今日もいい天気の様子。
朝の清涼な空気と暖かな日差しを浴びていると、もう少し…と思ってしまう。
でも起きなければいけない。
「…………ん」
少し気を入れて布団から起き上がった。
今日も、あの方を起こしに行かないと。
一日の中で最初の仕事。
私の……だけの特権……
しわせのかたち
「……ふぅ」
軽く深呼吸をして、私は身を整えた。
スカートを但し、軽く髪を梳く。
鏡が有ったら見直していたかもしれない。
そんな自分がおかしくて、ほんの少しだけど笑みが漏れた。
さっきからもう何度も見直してきたのに。
「……ん……」
仕事を忘れそうになってる自分を罰するように、軽く頭を小突いてから、ドア
をノックした。
コンコン
木製のドアは独特の響きでノックに答える。
でも、部屋の主の声はない。
コンコン
もう一度ノックをする。
でもやはり答えは無い。
毎朝の事。
毎朝変らない、神聖な儀式の始まり。
だから私も当たり前のようにドアを押し開け、中へ入った。
「…………」
部屋の中はしんと静まり返り、鳥のこずえしか聞こえない。
ううん、もう一つ…
この部屋の主の、柔らかい寝息も聞こえる。
「くぅ…………くぅ…………」
その方は豪華な布団の中で、静かに眠りに就いている。
まるで彫刻品のように静かで、彫刻品のように華麗なお姿で。
白い肌、美麗な眉…しっかりと閉じられた唇。
たの誰にも為し得ない、完璧な彫刻を思わせる、その寝姿。
ただそこに居られるだけで、この部屋が美術館になったような感じがする。
「…………」
あまりに美しいその御姿を見ていると…
胸が高鳴って、自分の責務を忘れそうになる。
ずっとこうして、この御姿を眺めていたいと言う罪な考えが浮かんでしまう。
でも、そうも行かない…私は、この方の侍女なのだから。
「志貴さま……どうぞお目覚め下さい」
静かな空気を割いて、私は冷静にそう囁く。
でも、この方はお目覚めにならない。
いつもの事……この方は、声を掛けられてもお目覚めになる事はない。
何度かお呼びして、そして結局、ご自分で覚醒されて起きられる。
でも、それは不快じゃない。
お目覚めにならない間は、その美しいお顔をまだ見ていられるのだから。
「……志貴さま……朝です。どうかお目覚め下さい」
数瞬前に浮かんだ罪な考えを振り払うように、私は再び声を掛ける。
本当ならば揺すり起こすのが筋なのかもしれない…そんな考えが浮かぶ。
でも、私には出来ない。
もう昔の様にこの方に触れる事を怖いとは感じない。
むしろ、私の本心はこの方に触れたいとも思う。
優しいその温かさを、直に感じたいとも思ってしまう。
でも、私は侍女。
だから、そんな罪な考えを擁いてしまう行為は、避けなければならない。
「……志貴さま。お目覚め下さい」
何度目かの呼び掛け…
でも、やはりお眼をお開けになってくれない。
時間はそろそろ圧してきた…そう考えると、少し困ってしまう。
この方が遅刻を為さるといけない。
もしそうなってしまったら、私の責任。
私などの為に、この方に損害を与えてはいけない。
でも……
ずっと……この美しいお顔を見てもいたい……
そんな考えが浮かんでしまう。
侍女にあるまじき妄想に、思わず首を振ってしまう。
私は、侍女として不適格になってしまったのだろうか。
「ん……ぅ……」
不意に、その白いお顔に赤味が差し始めた。
まるで彫像に命が吹き込まれるように、白い肌が熱をもお持ちになる。
ぁ……起きられる……
そう思い、ほんの少し残念に思い。
その何倍も、この方のお声が聞けると思って、嬉しくなる。
「志貴さま……お目覚め下さい」
ぼんやりとするお心をはっきりさせる為に、最後の一声を掛けた。
「ん……あ……あさ…」
ぼんやりとお声を上げになる。
奇しくも、今朝私が呟いたものと同じ言葉だった。
そんな些細な事で感動してしまい、心臓が一つ高鳴った。
「……ひすい……?」
不意に名を呼ばれ、また強く心臓がなった。
そんな動揺する気持ちを押さえ、朝のご挨拶を行う。
「はい。おはようございます、志貴さま」
言い終えてから、ゆっくりと頭を下げる。
内心の動揺とは別に、侍女としての私が身体を動かしているよう。
マニュアル道理の受け答え。
でも内心は、もっと気の利いた挨拶もできないのか、と少し悲しくなる。
「ぁ……うん、おはよう、翡翠」
はっきりと覚醒なさったのだろうか。
私に返事をなさいながら、いつもご愛用の眼鏡をおかけになる。
そして、にっこりと微笑みながら、こんなことをおっしゃった。
「今日もかわいいね、翡翠」
ドキンッ
聞こえてしまうのではないかと言うくらいに強く胸が動いた。
同時に、ほほに赤味が差してしまうのを感じる。
「ぁ………」
うれしいけど、その何倍も恥ずかしくて、その笑顔をまともに見れなくなって
しまった。
そんな私を、あの方……志貴さまは面白そうに見つめてくる。
眼鏡越しのその瞳は、とてもやさしくて…
まるで私の心を溶かしてしまうかのよう…
その瞳に吸い込まれて、とらわれて…私は…
…っ! いけない。
気が飛んでしまいそうになった。
まだ仕事は残っているのに。
「……い、いま制服をお持ちします…しばらくお待ちください」
内心の動揺を振り払い、自分の責務を自分に言い聞かせるように話す。
志貴さまがお目覚めになったら、次は制服を持ってこなければならない。
そう思い、部屋を退出しようと思っていたら。
「……」
志貴さまは押し黙ったように、じっと私の顔を見つめていらっしゃった。
そのお顔はどこか怒ったような、拗ねたような…
まるでお預けをされている子供のようだった。
そんなお顔はどこか可愛らしくて、つい見とれてしまう。
「……もぅ、翡翠。忘れたのかい?」
ちょっと呆れたようなお声で、志貴さまがそんなことをおっしゃる。
その声で、私は飛びそうになった意識をつなぐことができた。
でも、思い当たる節が無い。
私はなにを忘れたのだろう…?
「え…すみません。私は何を…」
したら良いのでしょう…そう言いかけたとき。
ふっと昨日の夜、志貴様がおっしゃったことを思い出した。
それは、あまりに恥ずかしくて忘れたつもりになった、志貴さまのお言葉。
でも、ほんとは夢にまで見た、志貴さまのお言葉。
「えと…お目覚めの……キス……ですか?」
消え入りそうな声でそうささやく。
ほんとに消え入りたい衝動に刈られて、前で組んだ指が震えてしまった。
すると志貴さまは、満足そうな笑顔でうなずいた。
「良かった、覚えてたんだ」
楽しそうなその笑顔は
早くして、翡翠。
とおっしゃっている様子だった。
恥ずかしいのでお断りします…とは…言わせてくれなさそう。
でも、そんな…事は…やはり…
「………………」
恥ずかしさに頬が赤くなって、志貴さまのお顔も見れなくなってしまう。
私が何も言えずにもじもじとしていると、志貴さまは軽いため息と共にこうお
っしゃった。
「んー、あー、いや…別に無理にってわけじゃないから…ね?」
困ったような志貴様のお声。
そのお声の中に、どこか残念そうなものを感じた。
志貴さまは、私にその…キス…をしてほしいのだと思う。
嫌…ではない、です。
むしろその…感謝したいほどです…
でも、その…やっぱり、私は侍女ですし…
そんな大それたことは…はぅ……
呟きにならない呟きを繰り返す。
本心と責務で、心がぐるぐる回ってしまう。
私は…私は…
「翡翠」
不意に、志貴さまが声をおかけになる。
とても真剣で、でもとてもお優しい声。
「翡翠…侍女だとかどうとか、そんな事はどうでも良い。翡翠自身がしたいと思
うなら…俺は、して欲しい……翡翠が、好きだから…」
ドキン
胸が、高鳴る。
私、自身…
私は…私はどう思っているの?
「…………」
じっと、志貴さまが私を見詰めてくる。
私を、私の瞳だけを見詰めてくる。
私の気持ちは……
志貴さまに、キスをして差し上げたい。
誰よりも、私自身が。
「……翡翠……」
そっと、私の気持ちを確かめるように志貴さまが囁きになる。
その声を聞いて…
私は、自分でも分かるくらいに優しい笑顔になった。
「……はい……志貴さま…」
か細くなる声を精一杯大きくして…私は、そっと志貴さまの前に立つ。
志貴さまもそっとベッドからお立ちになり、私を軽く見下ろすような位置にな
った。
もう一歩踏み出すだけで触れ合える位置…
この僅かな距離では、お互いの息をも感じてしまう。
私の心臓はどんどん高鳴って行く。
そのドキドキが、心地よいと思う。
「…………」
「…………」
そっと…私の方から、志貴さまの方へ顔を寄せた。
志貴さまも、僅かに遅れてから私に顔をお寄せになる。
そして、私と志貴さまの唇が一つに重なる。
「ふ……ぁ………」
甘い…そして熱い唇。
胸の鼓動が唇を通して伝わってしまうのではないか…
そう思ってしまうほど、身体が熱い。
何より、心が溶けてしまいそうだった。
「ん………………」
そっと、志貴さまから唇をはなす。
実際には、数秒でしかなっかたのだろうけど、時間はその何倍にも感じた。
反射的に、指が唇に触れる。
熱い……志貴さまの体温を感じた。
「くす……改めて、おはよう……翡翠」
志貴さまが、柔らかい笑顔でそうおっしゃった。
まるで草原の様に爽やかで、暖かい笑顔。
8年前のあの時のままの、優しい笑顔。
私の、大好きな笑顔。
「……はい……おはようございます、志貴…さま」
命一杯の、そして志貴様に負けないほどの笑顔を浮かべて…
私は愛するその方に、朝の挨拶をした。
空は良く晴れて、日の光が私達を照らしている。
今日も良い日になりそうですね…志貴様……