〜〜Zephyranthes〜〜
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PM1:47
モンゴル、ウランバードル、名も知れない草原
天高く透き通る青空。
地平の果てまで続く草原。
体を縫って吹き抜ける風。
そして隣には……
今までに見た事の無い、そしてとても綺麗な笑顔の――
エレンが居る。
HOME
「さて……此れからどうする?」
何気なく口を衝く。
言ってて自嘲的な笑みが漏れそうだ。
そもそも、答えを期待した言葉でもないが。
俺達には行く当てなど無く、帰るべき場所も無い。
だが、前途に不安などはなかった。
使い古した台詞だが、君さえ言えば……
「そうね……」
こちらの思考を寸断するように、エレンが軽やかに口を開いた。
まさか答えが返ってくると思ってなかった俺は、少々戸惑ってしまった。
そして……その答えは、更に俺を驚かせた。
「あなたが居れば……何処でも良いわ」
そう言ったエレンは、何処か幸せそうだった。
エレンの記憶を取り戻す為に、遠くはモンゴルまでたどり着いた俺達。
もっとも、何処を基準に遠いというのかは知らないが……
結局、エレンの故郷らしいところまではいけたが…
モンゴルの大草原を拝むに居たり、其処で足取りは途絶えた。
脳裏に浮かぶ、ホテルの従業員らしい青年の声。
”草原に行きなさい”
責任の無い助言は、やはり責任の無い答えしか待ってなかった訳だ。
しかし、エレンは其れでも満足だったらしい。
エレンがあの草原を見て何を思ったのか俺には分からない、解り様も無い。
だが……
此所最近見せていた、悲しい影も今はもう無い。
夜な夜な枕を濡らしていた嗚咽も、今は聞こえない。
少しずつ……ほんの少しずつだが、笑顔を見せてくれるようになった。
以前のように、自嘲的な笑みではなく。
あの草原で見せてくれたような、鮮やかな……そして、年相応の笑顔を。
そして……香港まで戻ってきたある夜。
エレンがこう切り出した。
「アメリカに、行ってみない……?」
アメリカ時間 PM19:34
太平洋上空、ハワイ沖約1千5百km、高度1万m
「何でまたアメリカなんだ?」
少々の困惑と大量の緊張を伴った声で、隣に座る少女に話し掛ける。
我ながら情けない話だが、緊張感で飛行機に乗ってから手の汗が乾かない。
何せ鉄の塊の中で、しかも丸腰で、止めに海の上だ。
今襲われたら一溜りも無い。
アメリカ……
確かに何処に行こうとは聞いた。
何処に行くと聞いても、大抵なら驚かなかっただろう。
しかし、何故よりによってアメリカなのだ?
確かに日本を脱出し、足取りは完璧に断った。
俺達を追っていたサイス=マスターは死んだ。
だが、未だインフェルノの追跡の手は弛んでは居ないだろう。
それなのに、どうして敵の懐に飛び込むような真似を……
対してエレンの方はいつもの様に感情を感じさせない無表情な顔で、手にした
雑誌を見ている。
「……おい、エレン?」
反応の無い彼女に向い、もう一度問い掛ける。
するとエレンはようやくこちらを向き、一言だけ呟いた。
「大丈夫……」
そして二度、雑誌へと視線を戻した。
その横顔が、可笑しそうに微笑んでいたのは気の所為だろう、きっと。
”何が大丈夫なんだ?”
”どうして君はそんなに落ち着いているんだ?”
聞きたい事は山ほど有ったが、どれも此れも言うだけ無駄な気がして止めた。
少なくとも、エレンは欠片も緊張はして居ない。
ならば俺も気を揉むのは止めよう。
少なくとも、飛行機の中のうちは安全のようだから……
”もっとも、降りてからも安全かは知らないが”
AM11:14
アメリカ、サンフランシスコ、サンタマリア通り
”結局……それすらも杞憂だったらしい”
サンフランシスコの熱い太陽を浴びながら、俺はそう思った。
どういう理由かは知らないが、空港に着いた時でさえインフェルノのヒットマ
ンの影すらなかった。
それどころか、ここにに至る道程で、其れを匂わすようなものは一欠けらも感
じられなかったのだ。
おかしい、どう有っても妙だ。
「なあ、エレン」
大通りの坂道を上りながら、俺は麦わら帽を浅く被ったエレンに話し掛ける。
白いワンピースに赤いポシェット、そして麦わら帽。
何処から見ても、その辺に居るハイティーンの少女其の物な彼女。
嬉そうにウィンドウショッピングを楽しみ、笑顔を見せている。
しかしポシェットの中にはコルト・パイソンが影を潜めているのを、俺は知っ
ている。
そして、その笑顔の何割が本当なのだろうか。
「どうしてアイツ等が仕掛けてこないのか……でしょう?」
そんな感傷に浸っていた俺を、静かな声が現実に引き戻した。
何時の間にかいつもの顔に戻っている。
相変わらず演技力が高い。
「……ああ」
「簡単な理由よ。インフェルノには其れだけの手駒が、もう無いから」
「なに?」
妙な話だ。
あれだけの規模を誇るインフェルノに手駒が枯渇するような事はない筈だ。
「正確には、アメリカ内で私達を追っている手駒が、いないのよ」
「どういうことだ?」
当惑する俺に対し、エレンは淡々と語り出した。
「インフェルノが私達の足取りをどう捉えたかは分からないわ。でも、最後に其
れを掴み、実際に接触を試みたのは日本。そして、其の日本にはインフェルノの
高位幹部であったマスターとリズィ、そしてファントム……キャルが乗り込んで
いた」
「……」
確かにそうだ。
香港に居た俺達のバックは抹殺され、仮の両親も姿を消していた。
奴等はそこまでを掴み、日本に居る俺達に襲いかかった。
サイスとキャルは、俺を殺す為にわざわざ日本くんだりまで足を運び…
サイスはエレンの手で……そしてキャルは俺の手で、あの世へといった。
「あちらの情報は私達には殆ど分からなかったけど……どうもリズィはキャルに
撃たれていたらしいわ。生死は分からないけど、私達に構っていられる状況では
なかった筈よ。そして、マスターがわざわざ出向く時は……決まって最後」
「……たしか、前にも聞いたな」
脳裏に浮かぶ、いやらしい笑みの男。
思い出すだけでも反吐がでそうだ。
だが、アイツが今は地獄で裁きをうけている。
そしてベッドの上に居るだろう巨漢の女性を思うと……少々、気が重くなる。
「ええ……」
ほんの一瞬、エレンの顔に何とも言えない寂寥感が駆け抜けた。
がすぐさま気を取り直す。
「つまり……インフェルノは、マスターが掴んでいた事実までしか追う事は出来
なかったハズよ。そしてマスターの性格上……」
一端言葉を切り、一息置くエレン。
ガタンガタン……
其の横を路面電車が駆け上がっていった。
なんとなく、2人で其の影を追ってしまう。
赤いシルエットが視界の外へと消えてから……エレンが続ける。
「……逐一をインフェルノへと報告するような事はないわ。あくまでマスター独
断での行動でしょうね。つまり、インフェルノが掴んでいる情報はリズィが倒れ、
マスター、そして頼みの綱のファントムが消えた場所……まだ日本を重点的に探
している筈。広くても極東でしょう」
なるほど、流れが大体読めてきた。
「つまり、アイツ等がもし俺達の足取りを仮に掴めたとしても、未だ香港から…
下手をしたらモンゴルを探し回ってるって訳か」
「……」
無言で頷くエレン。
「逆に言えば、お膝元であるアメリカへの気張りは薄れている。彼等にしてもわ
ざわざ危険を冒してまでこっちに来るとは、まさか思ってないでしょうね」
「なるほど。つまり俺達は裏をかいたって事か」
「ええ……それに、ファントムも倒された今、執拗に追い、手傷を広げるような
真似はしない筈よ」
「……」
言い得て妙といえ……逆に恐れ入りもした。
大胆な作だ。
毎度の事ながらエレンの切れには舌を巻く。
しかし少々心配にも思い、こう切り替えしてみた。
「けど、此れでアメリカの警戒が薄れてなかったら、俺達はやばかったな」
「それも大丈夫」
俺の心配も、エレンは軽く吹き飛ばした。
「彼等の戦闘における指揮系統は機能していない筈だから。マスター、そしてリ
ズィの2人が居ない今、組織立てて戦略を練れるような人材が居るとは思えない
わ。インフェルノはリズィとマスターを信頼しきっていた筈だから……」
「……」
それは同感だった。
サイスの持つ統制力と、彼の子飼いであるキャルがファントムと名乗っていた
事実、そして側近を勤めていたあの白い少女達の戦力を見れば、どれだけサイス
がインフェルノ内部で力を持っていたかが分かる。
そして、リズィの力は誰よりも俺が一番知っているし、内部事情も今と対して
変わっているとも思えない。
劇的に変わっていたら、サイスももっと別の手で動いていた筈だ。
あれだけ芝居がかった事を出来たという事は、奴の地位は安泰だったという証
明になる。
そしてリズィがキャルの近い位置に居たことも、インフェルノ内部でリズィの
信頼が高かったという裏付けになる。
「つまり……アメリカなら発見される機会は少なく、むしろ捜索の手が広まって
いる極東圏に居るより、アメリカに居た方が奴等の目は欺きやすいわ」
「なるほど、な」
実に分かりやすく、そして的確な回答だ。
だが……一つ解せない。
「でも、これは最善の策じゃなかったろう?」
「…………」
俺の言葉を受け、エレンの顔に一瞬の動揺が走る。
「本当に安全を期するならば、ヨーロッパに抜けた方が良かったんじゃないか?
インフェルノのコネクションも、ヨーロッパでは影響力はない筈だ」
実際、此れは2年前の情報であってあまり当てにはならないが……
規模の大小を考えたとしても、インフェルノの基盤はアメリカだから差ほどの
変化はあるまい。
「ヨーロッパなら、そうそう奴等の網にも引っ掛からない。幾らアメリカが安全
とはいえ……お膝元だ、危険度は低くない」
「……」
押し黙ったようにエレンは俯いている。
何も言わず、じっと黙っているが……
其の横顔は、明らかに俺の意見の方が的確だと告げている。
「エレン。どうして君は……」
”アメリカに来たかったんだい?”
そう問い掛ける前に、エレンがこちらを振り向いた。
其の顔を見て、俺はまた動揺する。
彼女の顔を見て動揺する事が、最近の俺の日課になりつつあるようだ。
そんな、今日の彼女の顔は……
「……だって……初めてあなたと会ったのは……アメリカだったから……」
恥かしそうで泣きそうな、憂い顔だった。
PM9:00
サンフランシスコ郊外、とあるホテル
「…………」
シャワーを浴び、服を着るのもおっくうでTシャツ一枚でベッドに寝そべる。
汗も埃も落としてさっぱりした筈だが……心はいまいち晴れない。
エレンに食事に誘われたが、食べる気分ではなかったので悪いが断った。
その時の表情が何処と無く悲しそうだったので……実は滅入っている。
果たして喜んで良い物か。
確かにエレンが感情を取り戻すのは嬉しいが…
だからといって何か急峻すぎはしないか?
モンゴルをたち、まだ1週間を数えない。
それなのにエレンの変わり様はどうだ。
特にそう、あの草原を見てから、エレンは劇的に変わった。
普段の無表情な顔はまだ変わってはいないし、切れるような警戒心は未だ健在
だ。
楽しそうにしつつも常に周りに配る気配も、俺よりもずっと鋭く早い。
だが、その無表情が、その気配りが、不意に消える時が有る。
一日にトータルで10分もない、それ程に短い時間だが……
”エレンが素の女の子になるタイミングが、希に有る”
たとえば、洋服を見た時、人形を見た時、何かを食べている時。
そして、俺と他愛も無い話をしている時。
そんな時、エレンの感情が演技ではなく100%本物になる瞬間が有る。
しかし……その時のエレンは、全くの無防備なのだ。
「…………」
何気なく天井を見やる。
そこそこの値段の宿だから、そこそこの内装だ。
天井には意匠を凝らした連続的な幾何学模様が、一杯に波打っている。
それを、見るでもなしに眺めつつ心を馳せる。
たった5秒や10秒にも満たない瞬間だ。
だが……それはある意味致命的でも有る。
明日をも知れぬ俺達にとっては、その油断ともいえる隙が命に関わる。
エレン自身、其れが分かっているんだろう。
100%を出した後は、すぐしまったという感じの表情に戻り、また演技の笑
顔になる。
一度だけ問いただそうとした事が有るが……その時も。
”ごめんなさい……”
そう、いつものような無表情に済まない顔をして謝るばかりだ。
悪い事ではない。
むしろ歓迎するべきことなのだろう。
が……
”だが……いや、だからこそ危険なんだ”
経験者だから、分かる。
あの時……封じられた記憶が戻ったあの時。
暫くは感情がまったく制御できなかったのを憶えている。
感情が、心が、記憶が奔流となって俺を突き動かしていた。
あの後初めて人を殺めた時、どうしようもなく恐怖したのを覚えている。
はじめてこの手で人を殺めた瞬間……
それに匹敵するような恐怖が自分の中を突き抜けた。
泣き出しそうになり、胃の中のものを統べてぶちまけて叫びそうになった。
あの後暫くクロウディアやリズィがしつこいぐらいに顔色の事を聞いたものだ。
流石に、本当に夜な夜な食ったものを吐き出しているとは気付かれなかったが。
それに慣れるのに、1月かかった。
それほどに……抑圧された記憶や感情が戻って暫くは、自分を抑制できない。
何気なく人を殺めていたという事実、人が死ぬという現実。
その全てに、押しつぶされそうに成っていた自分。
それを俺は良く知っている。
あの時クロウディアが居なかったら、俺は間違いなく壊れていただろう。
仮初にでも愛を貰っていなかったら、愛を捧げていなかったら。
”だが……其のクロウディアはもう居ない……”
そして、エレンのある意味心の枷でもあり支えでも有った、サイス=マスター
も。
今のエレンは、あの時の俺に良く似ている。
なんでも無い事ですぐ笑い、喜び、哀しむ。
感情の起伏が、激しくなり抑制できない。
いつも出来ないという訳じゃ無いが……希に、極偶に。
ちょっとした瞬間に、何気ない拍子に、感情の箍が外れ、素に戻る。
其の数瞬、俺はただの無力な餓鬼に戻っていた。
エレンも、ただの力の無い少女に戻るのだ。
それが……俺達にとっては致命的なのだ。
今の俺でも、希にそうなる。
流石に警戒を完全に怠るような事は無くなったが、それでも警戒心が弛んでし
まう事が有る。
何度それで命を危険に晒した事か分からない。
だがエレンは更に危険なのだ。
まだ、彼女は自分の意思で人を殺めてはいない……独りしか。
”サイス=マスター”
それだけでも十分過ぎるほどショックだったはずだ。
あの後、エレンがどれだけの涙を流したかを思えば容易に分かる。
あの後、魂の抜け落ちたようなエレンの顔を見てどれだけ後悔した事か。
果たして、2度目が有るのか?
エレンに、再び銃が握れるのか?
握れたとして……撃てるのか?
そもそも……
”エレンが、人を殺めるという事実に耐え切れるのか?”
俺は……出来る。
俺の手は愛した事のある少女ですら、殺したのだから。
だが、エレンには……出来ないのではないか?
”其れは悪い事か?"
頭の中でそんな声が響く。
悪い事ではない。
本来なら人を殺す事無く生きるのが人生だ。
特にエレンのような子には、これ以上殺しはして欲しくはない。
これは本心だ。
だが……俺達の人生は、血塗られている。
俺達が望まぬとも、危険は向こうからやってくる。
殺らなければ殺られる、死と隣り合わせの世界に俺達は、まだ生きている。
この先もそう有るのか、それともそんな世界から離れる事が有るのかは、今は
分からない。
だが少なくとも……今暫くは、危険に立ち向かう必要が有る。
必要が有れば何のためらいも無く相手を殺す力が要るのだ。
生き残る為に。
エレンと、この先も生きていく為に。
しかし、だからといって今のエレンにそれを……殺す事を強要して良いのか?
今エレンがそれをしたら……壊れてしまうのではないか?
それが……怖くてたまらない。
ともすれば、自身が死ぬ事の何倍も。
だが、エレンの戦闘力を欠いて……それで生き残れるのか。
それは……
コンコン
「!!」
不意のノックに弾けるように枕元……スタンドの傍にあるコルト・パイソンへ
と手が伸びた。
何かの確認する以前にまず武器を手にする……何かが有った時に備える為だ。
そして1秒の遅滞もなく気配を殺し、ドアへと向う……無論、ドアの前には立
たない。
そしてゆっくりとパイソンの撃鉄を起こし、備える。
最早考えるより先に体がかってに動く……我ながら徹底した物だ。
そんな事を考えつつも、そっとレンズから外をうかがうと。其処には…
「玲二……」
エレンが居た。
何故エレンが?
「開けてくれる?」
俺が何かを言う前に、エレンがそう聞いてきた。
「あ、ああ……」
面食らいつつも、まずパイソンの撃鉄を戻し、鍵を空け、ドアチェーンを外す。
そしてドアを押し開けて、また驚いた。
エレンはTシャツ1枚の姿でそこに立っていたのだ。
「なっ! え、エレン、なんて格好でっ」
「暑かったから……あなたも同じじゃないの?」
「そういう問題じゃなく、こんな所でそんな格好をしてたらどんな目に……」
「すぐ隣だから平気よ。それに、周りには誰も居ない事ぐらい確認したわ」
いけしゃあしゃあと言いつつ隙の無い動作で部屋へと入ってくるエレン。
こっちはついさっきまでそのエレンの事で色々と苦悩していたと言うのに。
そんなエレンに続いて部屋へ戻り、持っていたパイソンが鬱陶しくなったので
元の位置に放り投げた。
そして其の侭ベッドへと腰掛ける。
「……それで、何のようだ?」
僅かな苛立ちと困惑が声に出てしまい、ついついぶっきらぼうに聞いてしまう。
しかし当のエレンは意に介さず、備え付けの冷蔵庫を漁っている。
そして缶ビールを2本取り出した。
「一緒に飲まない?」
「え?」
「シャワーで汗かいたから……あなたもでしょ?」
「あ、あぁ……」
またしても面食らってしまった。
エレンの方から酒を誘われたのは、此れが始めてだ。
以前俺の方から誘った事も有るが、飲みたくないと断られてしまったのを憶え
ている。
それがまたなぜ……
「はい」
流れるような動作で一つをこっちに放り投げてくる。
反射的に掴みつつも、一つの疑問が頭に浮かんできた。
「エレンは酒が飲めたっけ?」
「飲めるわよ、偽装には必要な事でしょ?」
「そうじゃなくて……好きとか、嫌いとか……」
「どちらかと言うと好きね。でも控えるようにしてたから」
”なるほど……”
心の中でそう呟きつつ、プルトップを開けた。
カシュッと言う軽い音とともに、少し泡が溢れて出てくる。
エレンも同じ様にプルトップを開け、俺の横へと座った。
そして何やらじっとこちらを見てくる。
”何事だ?”
と不思議そうに見ていたら。
「かんぱい」
そうぽそっと呟いてきた。
「あ? ああ……乾杯……」
「ん、乾杯……」
カン、と言う音を立てて缶を合わせる。
はっきり言ってその動作は、エレンはともかく俺は間抜け其の物だったろう。
何処かへ飛んでいった心がまだ戻ってこない。
場に流されるままにビールを口にして……
「ん……! グッ、げふっ!!」
むせた。
我ながらどこまで間抜けなんだか。
もっとも、おかげで飛んでいった心が戻ってきたが。
「いきなりあおるからよ。ゆっくりと飲みなさい」
そう言いつつ、エレンはまるで手本を見せるようにゆっくりとビールを喉に流
し込んだ。
「……」
憮然としつつも、頭を落ち着かせる為を含め2口目を喉へと通す。
……美味い。
ホテルに置いてある品にしては上等だ。
エレンもそう思ったらしい、ほんの少し口元をほころばせた。
最近良く見る、普段の――しかし100%ではない――エレンの喜んだ顔だ。
「ん……美味しい……」
「エレンも、酒が分かるのか?」
「言ったでしょ? 好きだって……」
そう言いつつエレンがこちらへと微笑んでくる。
ここ数日で見慣れたとはいえ、それでもドキドキしてしまう。
案外純情な部分が、俺の中にもまだまだ残っているようだ。
「で……本当のところは何のようなんだ?」
そんな内心を悟られまいと、俺は声を沈めて聞きただした。
実際、エレンが何も用なしで来るとは余り思えない。
幾ら感情の起伏が激しい今の時期とはいえ、だ。
「話があってね……話って言うほど大層なものじゃないけど」
「ふうん……どんなだ?」
「……」
するとエレンは、じっと缶を見詰めて黙ってしまった。
何か言いにくそうに、逡巡するように。
長いような短いような……実際には、ほんの20秒程度だろうか。
俺が何気無しにビールを口にした時。
エレンが口を開いた。
「……あなたの、苦悩してる事に付いて……」
口にしたビールを吐き出しそうになった。
流石に吹き出しもせず、動揺も見せなかったが。
そんな内心の動揺を知ってか知らずか、エレンが先を続ける。
「今、玲二がどう思っているか……私自身が良く分かってる。自分自身でも驚い
ているから」
そう言いつつ、エレンも一口ビールを流し込む。
はぁ……っと浅く息を付いてから、改めて話し出した。
「ん……モンゴルで……あの空を見た時からよ。自分の中の何かが変わったわ。
ううん……変わったんじゃない、解き放たれた。多分、それが感情……心だった
んじゃないかと思う。記憶までは戻らなかったけど……でも、ほんの少しだけ、
心を……自分を取り戻せたんだと思う」
話していると言うより呟いている……そんな感じでエレンが囁く。
「何気ない空、何気ない草、雲……たしかに開放的だったけど、見た事が無い訳
じゃない筈のもの。でも……何かが違って見えた……いいえ、絶対に違ってた。
目に映る全てが輝いて見えた。何処までも続く蒼い草原も、とこまでも高かっ
た青空も、体を取り巻いて過ぎ去った風も、全部がはじめて見る様な気がして、
でも、心の……魂の何処かでは知っていた。
間違いない、ここが私の生れた場所だって、直感できた」
いつになく熱っぽく語るエレン。
こんな彼女を見るのははじめてで、戸惑った。
でも……それ以上に嬉しくて、綺麗だと思った。
「あなたと同じ空を見て、あなたと同じ草原を見て、あなたと同じ風を受けたけ
ど……でも、あなたの感じるそれと、私の感じた其れが違う物だって、分かった。
きっと、玲二にはなんの変哲も無い草原だったのだろうけど……私にとっては、
見える全てが綺麗だった」
事実、だろう。
実際俺には何でもない草原にしか見えなかった。
確かに、その広大さには感動できたが、俺にとっては其れだけだった。
だがあの時のエレンの横顔や仕草……何より気配は、良く憶えている。
明らかに喜んで楽しんで……そして感動していた。
「それで……分かったの。”ああ、そうか。だから玲二は日本であんなに変わっ
たんだな”って」
「……」
「あの時見た草原の風景と、玲二が懐かしそうに見ていた日本の風景……見てる
ものは違っても、きっと心は同じだったんだと思う。故郷を懐かしむ心。多分、
其の心が見るもの全てを綺麗に見せてたんでしょうね」
……ああ、そうか……
そういう事か……
だから君は日本では明るくならなかったのか。
だから君は時折哀しい顔をしたのか。
だから君は俺が変わったと言ったんだ。
故郷。
離れて初めて分かった、其の愛おしさ。
そしてそこに帰ってきた時の嬉しさ。
今言われて分かった。
何故あそこまで何気ない日本の風景に、人に、生き方に感動できたのか。
故郷だからだ。
俺の生まれ育った、俺の故郷だからだ。
遠い異郷の世界で、手を血で染め、明日とも知れない人生を送っていたとき、
それでも凍てつかせた心の片隅で思いつづけた、懐かしい大地。
そして、そこはエレンの故郷ではなかった。
だからエレンには感動できなかった。
エレンの心を動かす事は出来なかったのか。
そして……
だから、エレンはモンゴルに行ってから変わったんだ。
俺が日本に帰って変わったように。
エレンはモンゴルで変わった。
何故なら……
エレンが、エレンの見た風景が……
エレンの故郷だったからだ。
「それから……私は変わったんだと思う……いいえ……変わったのよね。それは
玲二の視線が教えてくれた。
私の仕草や言葉に、驚いたような顔をしたし、恥かしそうになってた。時には
狼狽もしてたし、赤面もしてた。
そんな玲二の姿を見る度に、”ああ、私は変わって行くんだな”って感じたわ」
「…………」
恥かしい話だ。
結局、独りで憂慮してるつもりだったが、エレンには筒抜けだったわけだ。
我ながら演技力の無さに涙が出る。
「其れが、とても戸惑ったけど……心の何処かでは嬉しかった。心が戻る事がじ
ゃない。多分……」
「…………」
「多分…………」
”多分、なんだい?”
そう問い掛けたく成るが……
俺は、エレンが自分で言うのをまった。
何か必要な儀式とでも思えるように。
「……多分、あなたに近づける事が……」
「……そうか……」
素っ気無い返事、なんだろう。
単に満感が篭り過ぎて声にならないだけだが。
おかげで奇妙な間が出来てしまった。
唐突に声が切れ、お互い何も言えなくなってしまう。
苦し紛れにビールの残りをあおってみる。
温くなったビールだが、渇いた喉を潤う効果は十分だった様だ。
エレンも其れに習うように、残りを一気に空けていた。
「…………はぁ…………」
そして浅いため息を吐く。
何処かさばさばしたような、何処か憂いを帯びたようなため息を。
エレンがこれほどに饒舌に話した事が有ったろうか。
アルコールも手伝ってだろうが……
其れでも、エレンが此れだけ話すのははじめてだ。
多分、サイスでもここまで長く会話をした事はないだろう。
抑揚も少なく、感情の起伏も無い声。
だが其処に込められた意味は、明らかに以前のエレンとは違う。
自らの心のうちを、赤裸々に語っていた。
そして……エレンの心の内も、読み取れた。
多分、初めてエレンの事を読み切れた。
「…………だから、なのか?」
”だからアメリカなのか?”
そういう意図の問い。
其の答えは……
「…………」
エレンの縦の頷きだった。
「そう……だからこの国……アメリカに来たかった」
再び話し出すエレン。
其の声には感情が篭り出していた。
「玲二の故郷は日本、そして私の故郷はモンゴル。どちらに居たとしても、どち
らかは疎外感を味わうわ」
言いたい事は良く分かる。
実際そうだった。
そしてそれに気付いたのは、互いの互いの故郷を訪れた後の、今。
「でも……アメリカなら。危険も多いし、下手をしたら命を落とすかもしれない。
でもアメリカなら、わたし達共通の思い出が有る。嫌な思い出ばかりだけど……
思い出には違いないし、私達が逢ったと言う事実は変わらないハズよ」
「そう、だな」
暗殺者と仕込まれたあの時、人を何人となく血の海に沈めた仕事。
人として扱われる事はなく、ただインフェルノの猟犬として、自らとは関係の
無い人々をこの手で殺めつづけた日々。
一握の希望も無く、死と隣り合わせで生きてきた暗い毎日。
今思い出すだけでも暗い物に囚われる様な……そんな気分に成る。
だが……たった一つだけ、あの時良かったと思う事が有る。
そう、それはアインであった頃のエレンと逢えた事だ。
それだけは良かったと、間違いなく言える。
「嫌な思い出ばかりだけど……いいえ。だからこそ、其の過去と向き会いたかっ
た。もう一度あなたと生きていく為に……」
「過去を清算する……か?」
「……そこまで望む訳じゃないわ。自分でやった事の重さは……自分が良く分か
ってる。命令だから、任務だからと自分を偽ってきたけど……間違いなく、手を
下したのはわたし自身。それには代わりない」
「そうだな……今更償える事じゃ、無いな」
「……でも、向き合う事は出来ると思う」
”向き合う……”
言うのは簡単だ。
思うのも。
だが……
「辛い、ぞ……?」
「……」
「人を殺したと言う事は、辛い……」
そう、辛い……
自らの意思で自らの罪に向き合うのは、辛すぎる。
感情を殺していた頃は、ある意味良かった。
任務だとか命令だとか……エレン自身が言った事に、責任を転化できたからだ。
それが一種の自己防衛に成り、心が壊れずに済んだのだ。
だが……記憶が戻ったあの時。
どうしようもない罪悪感に押しつぶされそうに成った。
いっそ死にたいと思いすらした。
それほど、自分のしたこと……人を殺すと言う事が耐えられなかった。
その後、自らの意思でそれをした時も、だ。
「エレン……君にそれが耐え切れるかい?」
「……」
「今の君に……自らの犯した事を受け止める事が……出来るかい?」
”早すぎる。まだ早い”
今の不安定なエレンには、耐え切れる物では無い筈だ。
「エレン……急がなくてもまだ……」
”時間は有るんだから”
そういう言葉が続けて出そうだったが……
エレンの、こちらを向くエレンの真摯な瞳に、それは押し留められた。
「今じゃないと駄目……今乗り越えないと駄目よ」
「どうして?」
「不安定なのは自分でも分かってる。今そうしたら壊れるかもしれない。でも…
だからこそ、今のうちにやるべきなのよ。今のうちに乗り越えなければ……私は
戦力に成れなくなる」
「……」
「だから、早い段階で……そして、心が開放されつつある今のうちにやらなけれ
ば。不安定だからこそ、乗り越えれれる可能性も高い筈よ、今のうちに此れを乗
り越えられなければ、後でも同じだから」
「…………」
めちゃくちゃな理論だ。
いつものエレンらしくない、支離滅裂な言葉。
不確定要素が大きすぎ、それ以上にリスクが大きい。
そんな事をあのエレンが言うとは信じられなかったが……
”エレンも、それだけ危険だって分かってるんだな……”
今のままのエレンは、それで戦力になら無いとは言えない。
戦うと言う点を除けば俺の何倍も頼りになる。
が問題なのは其処だ。
戦えない者を一人抱えて死地に向う事の危険さは、十分に知っている……
何よりも、エレンが良く分かっているだろう。
だからこそ、ムチャだと知りつつも、危険な賭けに出ようとしてるのだ。
”じゃあ、俺はどうしたら良い?”
答えは出ている。
俺が守ってやれば良い。
エレンの分も俺が命を懸ければ良い。
しかし……出来るのか?
”またキャルの様に死なせるのじゃないかい? 玲二さんよ”
そんなくらい言葉が心に響く。
そんな事はない、そう言いたいが……
「……エレン、俺は……」
言葉も無く口を開いてしまう……無論、続きは出ない。
言える筈が無い。
まったく根拠の無い言葉も、弱気もエレンの前では言いたくはない。
「俺は……」
それでも何か言わなければ、そう言う衝動に突き動かされて言葉を開いた時。
「玲二……」
先を取るようにエレンが囁いた。
「わたしは、玲二と生きたい……あなたとずっと生きていきたい。だから……」
一区切りを置いて。
「だからわたしは、あなたが出来たように乗り越えてみたい。
自分自身の罪と過去を。
そして、耐え切ってみせる……あなたを、守れるように……守る為に。
そして……あなたの為に、死なない為……生き残る為に」
「…………」
抑揚の無い調子だが、満感の意思を込めた、エレンの言葉。
此れほど強い意志を見せられて、今更何と返せば良いのだ?
そして、先までの自分が情けなくなった。
リスクばかりを気にして、エレン自身の可能性を信じなかった自分が。
もう、腹は括った。
エレンがそう決意したなら、俺はもうなにも言うまい。
俺が思う事は、出来る出来ないじゃない。
やる、だ。
「分かった……分かったよエレン」
そして……多分、今夜初めての笑みを乗せながら、俺は言った。
「だったら……俺は全力で君を守る。君が君で有れるように。
君を守り、君の為に生きるよ」
何度目の約束だろうか……
だが、誓おう。
最早祈る神は居ないが、それでも。
この約束は、絶対に守り通すと。
どうせ一度は捨てた命であり、拾った命なのだ。
ならば、死を恐れて危険を避けるより、自らの手で未来を切り開いていこう。
愛するこの少女とともに、生き延びてやる。
たとえ全身朱に染め地獄へ落ちようとも、いつかその時……
エレンと共に死ぬその時まで、全力で守り、生きてやる。
命を賭してエレンを守り、そして自らも生き延びよう。
「……ありがとう、玲二……」
この……エレンの笑顔に掛けて。