〜〜Zephyranthes〜〜
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  PM5:21
 ロサンゼルス郊外、廃工場

「…………」
「…………」

 空が赤くなる前の、もの淋しい時間帯。
 夕方と言うには早すぎるが、昼と言うには少々暗い時間帯。
 赤茶けた大地は生き物の気配が無く、吹き抜ける風も渇いている……
 草木は枯れ果て、赤い岩肌と遠大な砂漠が眼前に広がる。
 まるで世界の終わりでも来たかの様に、哀しい場所。

「……変わらないな……ここは」
「そうね……」

 俺達は、あの工場跡まで足を運んでいた。



 サンフランシスコを出てすぐ……
 俺達は思い切ってここまで足を運んでみた。
 この地はサイスが管理していたらしいが、未だインフェルノの管轄地である筈
だ。
 だからある意味自殺行為では有るが……
 お互い、どうしても此所に来たいと思った。

 エレンと俺が初めて逢い……
 2人が”生まれ変わった”場所だから。
 人生をやり直すには、やはりここからが良いだろう。

「懐かしい?」

 エレンが、いつも通りに素っ気無く聞いてくる。
 黒いホットパンツに黄色い半袖……そして其の上には青い上着。
 今日の彼女の服装は、普段よく着ている物だ。

「ある意味、な」

 いつもどうりのラフなスーツ姿で、俺も同じ様な声を返しておいた。
 本当は懐かしすぎて上手く言葉が出ないのだが。
 もっとも、良い思い出なぞ殆ど無いこの地だ。
 寂寥感の方が大きい。
 だが……

「何せ、君と半年ばかり生活した場所だからね」

 何気ない風でそう答える。
 半分本当で、半分冗談めかしてだったが。

「……」

 言って暫く……
 横手から何処か呆れた様な気配が横から漂ってきた。
 ……しまった、気障っぽかったか?
 そう思って弁解しようとした時。

「今までも…ずっと一緒だったじゃない……」
「っ……」

 少し憂いを帯びた、甘い声。
 そんな不意の言葉に思わず動揺してしまう。
 反射的に演技だと思ったが……それでも動揺してしまう程に……その……

「くす……」

 その瞬間、おかしそうな笑い声が聞こえた。
 ……どうやら彼女の方が一枚上手だったらしい。

「まだまだね……」

 勝ち誇った様な笑みを漏らしつつ、エレンが一歩前に出る。
 そしてそっと手を広げ、吹き抜ける風を感じるように眼を閉じた。
 モンゴルの草原で見せた、あの姿だ。

 深く深呼吸する様に……見えない何かを見詰める様に……
 砂漠を吹き通る風に、そっと身を任せていた。
 そして1分も経ったろうか。
 広げた手をそっと握ってから、口を開いた。

「ここの風は哀しいわ。まるで泣いているよう…」
「泣いている、か。そうかもしれないな」

 ある意味らしく、ある意味らしくないエレンの台詞。
 だが、素直に共感できた。
 ここの風は哀しい。
 生命力に溢れたモンゴルの風を感じた後だから、なおさらそう感じてしまうの
だろうか。

「ここの風は生き物の匂いがしないからな」
「そうね……草の匂いも、太陽の優しさも感じない。ただ、荒れた砂ばかり」
「砂漠、だからな」

 実際にはそれだけでもない、のだろう。
 もっとこう――自分自身の存在感が薄くなるような錯覚。
 生命の存在を拒絶する……そんな感じがしてくる。

「大地が渇いてるせいだけじゃ、無いわ。きっと…」
「…そうだな、きっと」

 命が居ないから命が居てはいけない、そういう訳じゃないのだろう。
 それ以上に、此所には哀しい気配が漂っている。
 俺の……俺達の過去が。

「殺す為の訓練をした場所、だからな……生命が失われてても不思議じゃないか
もな」
「……」

 無言で答えるエレン。
 無言……即ち、消極的な肯定。

「何発もの銃弾をここで撃ったし、何度と無く殺す訓練をしたさ……実際に殺し
もした。それに……下手をしたら、君も傷付けていたかもしれない場所だ」
「……」

 脳裏に断片的に浮かぶ風景。
 はじめて銃を握った時。
 ナイフでエレンと切り結んだあの時。
 そして……初めて、人を殺した時。

 どれも此れも鮮明に思い出せるのに……輪郭がぼやけるような気もする。
 ずっと遠い過去のような気もするし、つい昨日のような気もする。
 ここは、時間を狂わせる……

「……ねえ」

 追憶に浸っていた時、エレンが不意に声を掛けてきた。

「ん――なんだい?」

 遠い所から降りてくるように、俺の意識が覚醒する。
 そんな俺の方を見ながら、エレンが何気なく…
 本当に何でもないように、言った。

「勝負をしてみない?」
「えっ…?」

 俺にとってはあまりに不意な言葉だった為、思わず戸惑いが顔に出る。

”勝負、だって?”

 まさか……

「勘違いしないで、なにも傷付けあう訳じゃないから」

 俺の動揺した顔を見てか、エレンが可笑しそうに笑みを漏らした。

「ほんのお遊びよ……いけない?」
「いや、構わないが……」

 要領を得ない……
 エレンの表情からは、彼女がどう思っているのか上手く読み取れない。
 が、取りあえず先を促す。

「どういう勝負だ?」
「そうね……」

 そういってエレンはくるりと辺りを見回してから……
 何かを見止め、歩いていった。

「……?」

 何事かを眼で追っていくと、エレンは不意に立ち止まりしゃがみ込む。
 そして乾いた砂を暫くかき分けてから……
 半分朽ちたマンターゲットを救い出してきた。

「これで決めない?」
「銃か……」
「そう、公平でしょう?」
「まあ、な……」

 曖昧に答えつつ、エレンの側まで寄る。
 穴こそ無いが、風化し掛けてボロボロになっているマンターゲット。
 辛うじて原形を留めるに至っているだけだ。

 実際は何処まで公平かはよくわからない。
 銃の腕前に関しては、エレンの方が上だ。
 しかし、今のエレンにまともに銃が撃てるかが、実際には良く分からない。
 そういう意味では、完全に公平だとはいえない。

 だが向こうからの申し出だ、断る訳にもいくまい。
 取りあえずはやりたい様にさせてやろう……

「得物は何にする?」
「取ってくるのが面倒だわ……お互い、今もっている物で」
「……」

 そう聞いてすぐ、胸の側に有る黒い塊へと意識が飛ぶ。
 今の俺の銃はベレッタ……オートマチックの15連発+1。
 いつも使っているのはコルト・パイソンだが、それは今車の中だ。
 ベレッタはパイソンより弾数は多いが、だからといって早撃ちに向いているか
どうかは疑問だ。
 もっとも、無意味に重いデザートイーグルを振り回すよりはずっと良いが。

「わたしは此れね……」

 そう言いつつ、エレンは愛用のパイソンをポシェットから取り出す。

”得物だけ見ると俺が不利、か……”

 もっとも命が懸っている時だったらそんな悠長な事は言ってられない。
 例え遊びでも訓練でも、銃を握る時は命を懸ける……
 そう教わったのはエレンからだったか、誰からだったか。

「勝負は一発……ターゲットは胸」
「より早く打ちぬいた方が勝ち……か?」
「ええ……」

 言いつつエレンはマンターゲットを砂の上に固定した。
 触れれば倒れるほどに弱々しいが、何とか風ぐらいは耐えるだろう。
 そして、お互い揃って距離を取る。
 目測で約20m。
 この距離で止った的を外す事など皆無だ。

「それで……勝ったらどうする?」
「今夜どうするか……それを決める権利」
「……良いだろう」

 ルールを申し合わせてから、改めて銃の確認をする。
 弾は有る、セーフティーも外した。
 そして……

 ガチャ

 遊底を引いて初弾を装填する。
 あとは狙って撃つだけだ。

 エレンも同様に銃の確認をして……撃鉄を起こす。
 どうやら銃を持つ事は出来るようだ。
 この分だと、撃つ事も……それは少し経てば分かる事だろうか。

「準備は良い?」
「ああ……いつでも良いよ」

 互いに確認を取り、お互い邪魔にならない程度の距離を置く。
 そしてだらんと手を下げた。
 足幅は肩より少し広く、腕はほんの少し曲げ気味に。
 力を入れ過ぎず、さりとて抜き過ぎず……ゆったりと銃握を握る。
 体重を軽く落とし、しっかりと体を大地に固定。
 視線は真っ直ぐターゲットを見て、思考は限りなくクリアーにする。

 そして意識を絞り込んでいく。

 世界がどんどん狭く、細くなり……色も音も消え去っていく。
 銃の重さも、体に当たる風も、全てが感じられなくなる。
 今、俺の周りに有るのは……
 冷たい銃の感触と、視線の先のターゲット……そして。
 隣に有る、小さい息遣いのみ。

 浅くゆっくりと呼吸を繰り返す。
 それに合わせ、鼓動もどんどん少なく、しかし力強くなる。
 まるで2人の鼓動を合わせるように、ゆっくり、ゆっくりと……

 命を懸ける時とは全く違う緊張感。
 一瞬――ただ一瞬。
 相手より少しでも早く獲物を射る。
 隣に居るライバルと……全く同時に動き、しかし一瞬でも速く。
 ただそれだけを思い、考え……

 刹那の間、互いの呼吸が止った。

 考えるより感じるより速く、体が動く。
 下げられた手が弾けるように挙がり、それを押さえるように強く銃握が絞り込
まれる。
 微かに残った思考の片隅で、エレンの方が先に動いたのを感じた。
 しかしターゲッティングはこちらが速いと確信できた。
 最短距離で視線と銃口と、そして狙いが結ばれ……
 遅滞無くトリガーを引き絞った。

 ズギューーン……

 空ろな空間に響く、無慈悲な音。
 聴覚では全く同時に響く、9mmパラベラム弾と.357マグナム弾の銃声。
 ついつい癖でもう一発撃ち込みそうになる自分を押さえつつ、じっと弾丸の先
を確認する。
 視界の先では、支えが無い所為で派手に吹き飛ぶターゲットが見えた。

”どっちが先だ?”

 実際は勝敗などどうでも良いのだが、それでも頭ではそんな事を考えてしまう。
 しかし当のマンターゲットは軽く風に舞って、なかなか落ちてこない。

 エレンも気になるのだろうか。
 ふらっと一歩先に出て様子をうかがおうとする。
 当のターゲットは数秒間じれったく空を舞ってから、ゆっくりと落ちてくる。
 其処に刻まれた銃痕は……

「――の勝ち、ね」
「そのようだな……」


 結局、今夜はここに留まる事になった。



 PM6:37
 同地

 もともと2,3日は居る予定だったので、食事の事は準備済みだった。
 寝る場所も、昔使っていた寝袋や毛布が運良く残っていたので気にならない。
 住み心地こそ良くはないが、何処と無く落ち着く物が有るのも確かだ。
 住めば都、勝手知ったるなんとやら、と言う奴だ。

 もっとも、足が付かない様に来る時使った車はカモフラージュし、周りには早
期警戒用の仕掛は施したが。
 この場合は備え有れば憂い無しとでも言うのだろうか。
 一通りの作業をこなしてから、寝るのに使って居た部屋へと俺達は移動した。

「中に入ると一層懐かしいな……」

 古びたドアや、部屋を見つつ感慨にふける。
 思えば、此所で目を覚ました時が全ての始まりだったのだが……
 嫌な事も、過ぎてしまえば思い出だ。
 もっとも、思い出は消えることなく残りつづけるのだが。

「時期がまだ良かったわね。冬だとこんな事も言ってられなかったわ」
「まったくだ……それでなくても寒いけどね」
「ん……」

 布越しに触れる床の感触は冷たい。
 砂漠の夜は夏でさえ一桁台になる事も有る。
 夜はそれなりに覚悟する必要が有るだろう。

「覚悟済みなんでしょ? 寒さくらい」
「まあ、ね……此れくらい冬の張り込みに比べたら、何でも無いさ」

 我ながら冗談なのか本気なのか分からない答えだ。
 そんな言葉を聞いて、エレンは呆れたように笑っている。

「その張り込みの時に、寒い寒いと言って凍えてたのは誰だったかしら?」

 ……やぶ蛇だった。

「ま、まあ……火でもおこしたらそこそこ暖かいから」
「じゃあその薪は誰が準備するのかしら?」
「…………」

 無言で立ち去る俺……無論言われた事を実行する為だ。
 暗にエレンは寒くないとおっしゃっているのだ……言った俺が取ってこなけれ
ばなるまい。
 どうやら今日はそういう日らしい。
 諦めよう……



 PM8:33
 廃工場、内部

「……」

 缶詰ばかりの食事も済み、ゆったりとした時間を過ごしているうち…
 なんとなく、工場の中を見回ってみたくなった。
 うち寂れた工場内にはさして面白い物がある訳でも無いが、なんとなくだ。

 電灯を点けていない工場の中は、真っ暗闇に近くなってしまう。
 それでも、月明かりがあるおかげで夜目はある程度利く訳だが。
 ふらふらと当てもなく歩いていると……
 古ぼけたドアの片隅に掛る、黒と黄色の標識が眼に入ってきた。
 それを見た瞬間、ふと昔の記憶が戻ってくる。

”初めてこれを見た時は、何の事か分からなかったっけな……”

 辺りを見渡せば、闇の中に色々と浮かんで見えた。
 どれも此れも記憶に残っている物ばかりだ。
 足元に転がる鉄材や、片づけそびれた薬莢……
 動いている時はけたたましい音を立てていたエンジン、そしてそれに繋がるロ
ープ。
 整然と並べられているターゲットや、ブロック。
 うち捨てられたフォークリフトに、武器庫への扉……
 どれもこれも、昔の俺達が残していった残滓だ。

「あの時のままなんだな……」

 ふと、感慨が口を衝いて出てしまった。
 あの時とは、いつの事を差しているのだろうか。

”初めて目を覚ました時?”
”ここで訓練した長く短い日々?”
”傷ついたエレンを抱きしめた夜?”
”キャルを連れてきた日?”

 それとも……

”2人で逃げようと決めた、あの夜?”

 どれでも有りそうで、どれでもなさそうな妙な感覚。
 多分それが答えなのだろう。
 答えなど意味が無い、という……

”所詮は今じゃない昔……そういう事だ” 

 昔は昔で、意味のある日々だったのかもしれない。
 しかし……
 今の俺とエレンは逃亡者で、キャルに至ってはもうこの世にすら居ない。
 昔有った事をやり直す事など、二度と出来る訳はない。

「過去は過去……か」

 いくら思おうとも考え様とも、戻る事の出来ないただの記憶。
 過ぎ去ったただの情報。
 それが、淋しくも有り、哀しくも有る……

 やはり此所に居ると余計な事まで思い浮かぶ。
 が、過去に真正面から向き合う機会など、後にも先にももう無かろう。
 ならばせめて……

 チャリ…

 ふと、横手に気配が有るのを感じ取った。
 何時からそこに居たのだろう。
 砂の擦れる音がしなければ全く分からなかった。
 それほど完璧に、影は闇に溶け込んでいた。

「……」

 一瞬焦りはしたが、なんの事はない。
 殺気も無ければ、無理に気配を押し隠している訳でもない。
 ただ、意識を”ここにおいていない”から分からなかっただけだ。
 俺と同じ様に……”今”に居ながら”昔”に居るような感じ。

 その気配が、そっと口を開いた。

「昔は昔。今は今……でも、思い出してしまう物ね……色々と」
「……そうだな」

 俺から離れる事約8m……
 はるか遠くを見据えるような、エレンが居た。



 廃工場内に響く、2つの息遣い…
 一つは俺、もう一つはエレン。
 その昔も、ここは俺達だけの息遣いしかない場所だった。

”だがその頃の俺達は、生きていたと言えただろうか”

 またそんな事を考えてしまう。

「……」

 エレンの方は何を思っているのだろう。
 そっと足を折り地面に触れ、軽く砂をかき集めていた。
 白く細い指の間を、乾いた砂が滑り落ちていく。

「何が取れた?」

 冗談半分でそう聞いてみる。
 我ながら何を考えているのやら、そんな問いだ。

「…………」
「エレン?」

 しかしエレンは何も答えずじっと握った手を見詰めているだけだった。
 俺の問いに怒ったのか、呆れたのか?
 そう思って声を掛けようとした時……

「これ…」

 すっくと立ち上がって、そっと手をこっちに見せて来た。
 その手の中には、まだ弾頭の付いた錆びた銃弾が乗っていた。
 赤茶けて使い物になりそうも無い、9mmパラベラム弾……

「……味気ない物が取れる場所だな」

 結局、どうあっても命のやり取りに関係ある物しか出てこない訳か。
 過去も今も、そしてこの先も……
 ここは血と硝煙、そして死しか縁の無い場所なのだろう。

「殺す為の訓練をして、殺す為の道具が残るこの場所…か」
「…………そうね」

 感慨深いエレンの声。
 俺が思いを馳せる以上の、深い感傷が篭っていた。

「色々な思い出の欠片が残る、この場所よ」
「思い出、か……」

 思い出の欠片。
 正確に言えば、ここには思い出は残っちゃいない。
 有るのは、ただ”生かされた”澱みのみ。

「でも、此所での生活は……俺達にとって生きた証にはならないだろうな」
「……そうかしら」
「あぁ……」

 少なくとも、俺はそうだった。

 目が覚めてみれば知らない世界。
 訳が分からないうちに殺しの訓練を受けさせられ。
 何時の間にか人を殺めた。
 少なくとも、ここで目が覚める以前の俺は、こんな世界を望んじゃいなかった。

「あの頃の俺は死にたくない一心で生きてたようなもんだ。”生き残りたい”っ
てだけで、”生き続けたい”とは思っちゃいなかったさ……」

 そして……
 ここを出てインフェルノの暗殺者として生き。
 あの夜に過去を思い出すまでの間は、それこそ人として生きていなかった。
 人ではなく、飼い犬としていき、人を殺める時ですら、其の意味を理解はして
いなかった。
 いや、理解はしていたが、心は分かっちゃいなかった。
 ただ心の死んだ、器だけの生だった……

 此所に散らばる薬莢と大差はない。
 中身の伴わない、ただの抜け殻だった。

「死にたくない一心で生き……でも結局、生きる意味を見失ってた。死にたく無
い理由が分からなくなってた。結局、それじゃ生きてても死んでても同じさ」

 まるで独り言の様に俺は呟き、エレンはそれを聞きとがめた。
 そして……彼女が口を開いた。

「生きる事を…目標にしてはだめなの?」

 素直な……本当に素直な声で、エレンが問う。
 其の口調は、まるで父親に疑問を尋ねる娘のよう、そんな感じだった。

「難しい質問だな…」

 何ともいえない奇妙な感じに囚われつつ、俺は苦笑いを交えてエレンに答えた。

「生きるって事は……言葉じゃ表しにくいけど、ただ生き残る事じゃない」
「……」
「ただ生き残るって言うなら、それじゃ動物と同じさ。意味の無い生でしかない。
生命を、自らの子孫を残す為だけに維持する。それが動物の生き方だ」

”でも……”

「でも、人間の生き方は違う。人間が生きるって言うのは、そういう事じゃない」
「……じゃあ、どう言うことなの?」
「……」

 エレンの問いが頭の中でこだまする。
 自分自身が吐いた言葉も、頭の中で跳ね返っている。

”どう言う事か――それは――”

「それは、意味を見つける事さ」
「意味?」
「あぁ、生きる意味だ。目標といっても良いかな」
「……」
「自らの命を長らえる為の目標。生き残り、何かを成したいから。何かをやり遂
げたいから。ただ生命を長らえるだけではなく、自らに課した何かを達成する為
の、生。
 それが、人間として生きるって言う意味だ……」
「……」

 不思議そうな、良く分からない様な……そんな感じの表情がエレンの顔に浮か
んでいる。
 きっと俺自身も似たような顔なんだろう。
 自分で言っていた言葉なのに、とてもそうは思えなくなる。
 まるで自分じゃない誰かが言葉を発しているようにさえ思えてくる。
 なぜか。

”理由は簡単だ。一般論でしかないからだよ”

 其のとうりだ――そう、思わず俺の中の俺に答えてしまう。
 普通の人間に当て嵌まる言葉だから。
 だから、俺達にとっては白々しく聞こえてくるんだ……

”俺達は一般人では無いから……”

 人としての生、言った言葉には頷ける。
 しかし……それを全うできたかという問いには、答えられない。
 資格も、無いのかも知れない。

”俺達には、もう其の生き方は出来ないかも……知れないな……”

 なんとも言えない悲しさと淋しさが、俺の心を埋めていく。
 もう戻れない其の日を思って。

 そうやって、俺が過去への哀愁に浸っていた時……

「私は……」

 エレンがそっと囁いた。
 注意深くないと聞き逃してしまう、それほどか細い声で。

「私はここで、あなたに3度、助けられたわ……」

 しかし其の言葉を聞いた瞬間、何よりも鮮明な光景が3つ、俺の脳裏に思い浮
かんだ。

 エレンの体内に残った弾丸を摘出したあの時。
 文字どうり、命を救ったあの瞬間。
 その時のエレンの肌の白さも、血の温かさもハッキリと思い出せる。

 そして、エレンに、”エレン”と言う名前を付けてあげたあの時。
 ”アイン”と言う人形の名を捨て、”エレン”と言う少女の名前を与えた瞬間。
 その時の驚いたような戸惑うような表情は、今でもはっきりと思い浮かぶ。

 最後の一つは……
 2人で逃げようと決めた、運命の夜。
 当ても無い逃亡を決めた……でも、エレンとの”今”に繋がる、あの夜だ。

 たった3つだけの、ここでの良いと言える思い出だ。
 思い出といえる、”人”としてとった行動の結果だった。

「命を救われ……魂も救われ……人生、運命からも救われた。わたしは、ここで
3度の命を貰った……あなたに……助けられた……」
「……そう、だったな」

 懐かしむようで哀しむようで……
 エレンは遠くを見て呟いた。
 その横顔はいつか見た、自嘲的な笑顔。
 ただ、瞳の奥には微かな感謝が見えた。

 そして一歩、また一歩と俺の前を歩みながら、エレンはゆっくりと話し出した。
 古ぼけた窓から月明かりが刺し込み、エレンを照らし出す。
 とても幻想的だった。

「あの時、一番最後にここへ来たあの夜にね。わたしは誓ったの……
 わたしの命は、あなたの為に使うって」
「俺の、ため?」
「そうよ……あなたの為に、私は生きるって。そう決めたの」
「……」

 屈託の無い笑顔で答えるエレン。
 其の表情は、”あの”笑顔だった。

 そして、其の笑顔を憂いで染めつつエレンは続ける。

「初めは……あなたに救われた命だから……そう考えていた。インフェルノを裏
切り、マスターを裏切り……もう、私の存在価値を認めてくれるのはあなたしか
居なかったから……何より、私に名前を……新しい命をくれたのはあなただった。
 だから、あなたの為のこの命は捧げよう……そう思っていた」

 誰かの為の生。
 エレンの人生はまさにそういう生き方だった。

 望まない殺しに手を染め、それをサイスの為と割りきり、奴の為に完璧であろ
うとした、エレン。
 インフェルノの飼い犬となり、ファントムと言う意味の無い名前で人を殺しつ
づけた、エレン。
 俺の為にと命を懸けてキャルと戦おうとし、俺の為にとその手で親代わりであ
ったサイスを殺めた、エレン。

 エレンの人生は、他が為の人生だったのか?
 自ら歩む道を見つける事無く。

 そう考えると、我が身が切り裂かれるほどに痛ましく思えた。
 何か言おう、そう思って口を開き掛けた時…

「でも……」

 それを制するかのように。

「でも今は違うわ」

 ゆっくりと首を振りつつ、エレンが続けた。

「今はわたしはわたしの為に、生きたいって思ってる……」
「自分の、為に?」
「ええ…」

 微笑んで居るとも泣いているとも取れるような、微妙な表情。
 そんな顔を俺に向けながら、エレンは言う。

「あなたの為の命。それの意志は変わってない。だけど……救ってくれたとか、そ
んな事はもう関係ないの。わたし自身が、死ぬ瞬間まであなたと一緒に居たい……
 そう思うようになったから」
「……」
「あなたに救われ、新しい人生を歩んで……良い事も悪い事も、色々経験したわ。
でも、きっと未だ色々と出来る事が有り、体験できる事も有ると思う。もちろん、
良い事も悪い事も含めて……」

 エレンにとって何が良くて、何が悪いのか。
 分かるような気がして、分からなかった。
 でも、月明かりの中に伺える其の表情からは、”意志”が感じられた。

「その全部を……今からの、わたしの人生の全てを。
 わたしは、あなたと一緒に歩んでいきたい。
 ずっと……一緒に」
「……エレン……」
「在り来たりな言葉かもしれないけどね……あなたとならば茨の道も、よ」

 そう言いながら、エレンは今度はしっかりと微笑んでみせた。
 屈託の無い、とは言い切れないが……
 それでも、過去を憂いて立ち止まるような事はない。
 そう言いたげな、綺麗な笑顔だった。

 その笑顔を見つつ、俺も口を開いていた。

「……俺だってそうさ。君に2度助けられた……」

 同じ様な顔……なのだろう。
 エレンほどに鮮やかじゃないだろうが、頬を弛ませながら俺も呟く。

「君は、俺が救ってくれたといったけど、俺だって君に救われたんだよ」

 エレンと同じ様に月光を浴びながら、俺は自分の過去へと思いを馳せた。
 遠くて近い、そんな昔を。

 エレンがくれた2つの命。
 一つは、生き残る術を身に付けてくれた事。
 例えそれが血塗られた物であっても、エレンの指導が無かったら、今こうして
生きてはいまい。

 そして2つ目は……初めて自らの手で人を殺し、泣き、壊れ掛けていた俺を
”殺してくれた”時。
 あの時”撃って”くれ無ければ今の俺は居なかったろう。

 もちろん……それは諸手を挙げて感謝できる事ではないかもしれない。
 それでも、命を救ってくれたのは確かだ。
 あの時エレンが居なかったら、俺は生きてここに居られなかっただろう。
 エレンと共に、生きてはいなかった。

「俺も、君に2つの命を貰ったんだよ……」
「……」

 お互いの命を救いあった、奇妙な仲。
 それが良い事なのか悪い事なのかは、俺には言う事は出来ない。
 でも……結果、俺達は生きて此処に居る。
 それだけで、良い、良いのかも知れない。

「俺とエレン。どちらが欠けても俺達はここに居られなかったさ」
「そうかも、知れないわね」
「きっとそうさ……どちらがどちらじゃない」

 俺達が出会ったとこで、運命はこうなった。
 少なくとも、俺はエレンに会え、エレンは俺に出会えた。
 俺にとっては、それがせめてもの、そして何よりもの救いだ。
 多分、エレンにとっても……

「この工場で生活したあの時が有ったからこそ、今俺達はここに居られるのかも
しれない……エレンが俺を鍛えてくれたから、今俺は君とこうしていられるんだ。
 そして何より……君を――」

 続きは、声にならなかった。
 単に、照れくさくなったから。
 何をいまさら、そう言う気はするが……

「……わたしを……何?」

 しかし、エレンは続きを聞いて来た。
 問いただす訳でもなく、どうしても聞きたいという訳でもなく。
 ただ……古びた窓から刺し込める、月明かりを受けながら……
 そっと笑いながら……聞いて来た。

「……」

 その笑顔に押される様に。

「君を……好きになったから、俺は生きてこれた……」

 俺はそう呟いていた。
 そして――

「…………」

 照れくさそうにしている俺を見ながら――エレンは、そっと頷いていた。

「わたしも……同じ。あなたが……好き……だから」

 鈴が転がるような、小さな声。
 それだけ囁いて、エレンははにかむように俯いてしまう。
 俺も、照れくさくなって顔を背けてしまう。

 なんとも言えない空気……
 年齢相応の男女に戻ってしまった俺達だが……
 それでも、不快じゃなかった。

 過去を振り返り、生きるという意味を考え……そして――
 結局は、極単純な結論へと戻った。
 好きな人と一緒に居たいから……ただそれだけだ。
 生きる目的に、これほど単純で明確な意味を見つけられるだろうか。

「わたしの生きる意味は……玲二の為に、生き続ける事。ずっと一緒に居る事。
それって……人間としていきる事に、なるわよね?」
「……ああ。もちろん」

 結局――人はそうやって生きていくのではないだろうか――
 過去を思い、憂いて見ても……人は、歩むしかないのだから。
 生きている以上、前にしか進めないのだから。

「俺達にはもう、”思い出”はあっても”戻れる過去”はない。だから――」
「だから……?」
「進もう。たとえ……その道が険しくても」
「……うん……大丈夫。わたしは、あなたが居てくれたら……歩めるから」

 頼るのとは違う、もっと強い光を込めて、エレンが俺を見る。
 俺も、エレンを守ると言う意味では見なかった。
 俺達は対等だから。

「俺も、君が居てくれたら大丈夫だから……」

 本当に大丈夫かは、分からない。
 けど……エレンを守ると決めたから。
 それ以上に、エレンと一緒に居たいから。

 だから、歩もう。
 人として……

「もう一度、ここで生まれ変わって」

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