桜  (1)



 今年は暖冬だったためか、春の訪れが例年より1週間ばかり早い。
 まだ3月の半ばを過ぎたばかりだというのに、東京の桜はすでにピンク色の蕾を大きく膨らませ始めていた。

 この桜が見事にほころぶ頃には、自分たちの未来への道筋も、はっきりと示されているのだろうか。
 米花公園のシンボルでもある大きな桜の木の下で、蘭はゆっくりと右腕を伸ばし、その小さな蕾のついた一枝に手をかけた。

 そっと触れればまだ固い、小さな無数の蕾たち。
 この一つ一つが、小さくとも精一杯の自己主張をして、やがてゆっくりと可憐な花を開いてゆくのだろう。
 先週、帝丹高校の卒業式を無事に終え、それぞれがそれぞれの道を歩みだそうとしている自分たちのようだ、と、蘭は思った。

『・・・スイスの、お嬢様学校・・・?』
『うん』
『・・・本気で?』
『こんなことで、蘭に嘘吐くわけないじゃない』

 何日か前に園子と交わした会話。
 つい最近まで、鈴木財閥のご令嬢である園子の進学先は、都内でも有数のお嬢様大学にほぼ決まっていたはずだった。
 それが園子の両親の希望であったし、園子もその大学に特に不満など感じてはいなかったはず。
 小学校からずっと一緒の学校だった園子と、ついに離れ離れになってしまうのは寂しかったけれど・・・それぞれの進もうとする道が違うのだから、進学先が違うのは当たり前のこと。
 別々の大学に進んでも、ずっと親友でいようね、と、卒業式に涙ながらに抱き合ったのは、つい先週の話なのだ。

 ・・・それなのに。

『・・・やっぱりわたし、蘭と違って・・・ずっと待ってるだけなんて、性に合わないのよね』

 おどけたようにぺろりと小さく舌を出して、軽い口調で言った園子。
 空手の武者修行の為に現在はヨーロッパ各国を巡っている真と、少しでも近い場所にいたいから・・・と、すでに(かなり高額の)入学金も納めてある大学を蹴って、スイスにある超お嬢様学校を受験するのだという。
 向こうは9月が新学期だから、それまでは言葉の勉強も兼ねて、スイスの別荘に腰を据えて受験勉強に励むのだとか。鈴木家のことだから、きっと優秀な家庭教師が何人もつくのだろう。

 一見、何にでも積極的で行動派の園子らしい決断だ、と思えるかもしれない。
 だけど園子がその決断をするまでに、かなり悩んでいたであろうことは、蘭にもよくわかっていた。

 言葉も不自由な外国の学校に、たった一人で留学する。・・・そんなこと、生半可な決意では到底できやしない。
 住み慣れた日本を離れて、家族や親友とも別れて、見知らぬ土地へと飛び込んでいこうとする園子。
 ・・・ただ、好きな人の近くにいたいという、その想いだけで・・・。

 園子と遠く離れてしまうのはとても寂しかったけれど、その一途な想いは、ずっと大切にして欲しかったから・・・蘭は笑顔で、「がんばって!」と告げたのだ。

(・・・ほんと、すごいよね、園子は・・・)

 待ってるだけなんて、嫌だと言った。そして、真さんが帰ってきてくれないのなら、自分から追いかけていくのだと、そう決めた園子。
 以前園子が、新一のことをずっと待っている蘭に対して、「強いね、蘭は・・・」と言っていたことがある。
 けれど蘭にしてみれば、好きな人を追って一人で飛び出してゆける園子の方が、ずっと強いんじゃないかと思う。

 頑張って欲しい。
 自分だけの道を選んで、その道を進んでいこうとする園子を、蘭は心から応援したいと思った。
 今はまだ蕾かもしれない園子の未来は、きっと近い将来には綺麗に咲き誇っているに違いないと、そう信じている。

 ・・・そして。

 わたしの蕾は、いったいどんな風に咲くのだろう。
 その隣に咲くのは・・・新一の、花であってくれるのだろうか。



 昨日、蘭の手元には、一通の封書が届いていた。
 今月の初めに受験した東都大学法学部の・・・不合格、通知である。

『もともと合格の可能性、五分五分だったんだもん。そんなに落ち込んでないから、大丈夫よ!』

 通知が届いてすぐに、新一に不合格であったことを伝えるために電話した。
 精一杯の強がりで、明るい声でそう言ったみせた。
 同じ東都大学の理学部を、当然のように合格していた新一は、その蘭の報告を受け、受話器の向こうで沈黙してしまった。

 ・・・受験勉強をしている間、自分の勉強なんかほったらかしで、まるで家庭教師のようにずっと勉強を見てきてくれた・・・そして、自分の合否より蘭の合否のことばかり心配してくれていた新一。
 蘭が不合格だったことを知れば、蘭以上に残念がって、そしてものすごく蘭のことを心配してくれるのがわかっていたから・・・だから、余計な気を使わせたくなくて、無理矢理明るく振舞った。
 ちゃんと志望校に合格している新一に、嫌な思いをさせたくなかったから・・・・・・「こんなこと、何でもないから」と、言うしかなかった。
 電話の向こうで新一は、ただ「・・・そっか」と一言、言ったきりだった。

 東都大学の法学部を第一志望にしたのは、母の英理のような弁護士になりたいと思ったからだ。
 母の母校である東都大学で、法律の勉強をしたい。・・・そう思ったから。
 けれど、3年生になった時点での蘭の成績は、東都大学を目指すにはちょっと厳しいものだった。
 蘭の成績はクラスの中でも、決して悪い方ではなかったのだが、帝丹高校から東都大学へ現役で合格するのは毎年せいぜい10人程度。・・・さすがにそこまでの上位には、入っていなかった。

『まだ1年あるんだから、やれるだけやってみろよ』

 蘭の志望校を聞いた新一は、優しく笑ってそう言ってくれたっけ。
 新一が応援してくれたから・・・蘭の苦手な教科も、忙しい探偵業の合間を見ては根気よく教えてくれたから、およそ1年間の受験勉強も頑張ってこれた。
 おかげで受験直前の全国模試では、ずっとD判定だった合格確率もC判定にまで持ってくることができた。・・・常にA判定の新一と一緒にいたから、全然すごいことだとは思えなかったけれど。

 そして臨んだ、東都大学の前期募集試験。
 自分なりに、精一杯やった。
 その結果の不合格なんだから、しょうがない、よね・・・?
 桜の枝に伸ばした手を引っ込めて、蘭はそっと瞼を伏せた。



 実は、新一にも言っていないことがある。
 東都大学の法学部の、後期募集・・・その受験日が、明日なのだ。

 後期募集は、前期募集よりも難易度が高い。
 わずかな募集人数に対して受験者が殺到するため、前期募集とは比べ物にならないくらいに倍率が高いのだ。
 これまでの模試でも、蘭はD判定以上をもらったことがない。

 そしてその後期募集にも受験申込みをしていることを、蘭は新一に内緒にしていた。
 滑り止めの為に、蘭の成績でもA判定をとれている別の大学を受けるつもりだ、と言ってある。・・・後期も東都を受けるなんて言えば、きっと新一は反対するだろうから。

 だって、東都大学の受験を決めたときに、新一は言ったのだ。

『・・・まさかとは思うけど、オレと同じ大学に行きたいから東都に決めた・・・ってことは、ねーよな?』

 言われて、一瞬どきっとした。
 もちろん、それだけではなかったけれど・・・新一と同じ大学に行けたらいいな、という思いは、確かにあったから。

 東都大学にあくまでもこだわっているのは、もちろん、母の出身校に行きたいという憧れもあるのだけれど。そして、司法試験を目指すなら、やはり最高学府である東都大学で学びたいという希望もあったのだけれど。

 ・・・でも、何よりも一番の理由は。
 やっぱり新一と、同じ大学に行きたかったから・・・。

 けれどそのことを、新一には言いたくなかった。
 自分自身の将来を決めるのに、新一が行くから私も行きたい、だなんて理由が、とても恥ずかしいもののように思えたから。
 だからそのときは、新一の言葉を笑い飛ばすしかなかった。

『何、自惚れてるのよ!・・・そんなわけないでしょ? 東都に行きたいのは、お母さんの母校だからよ。弁護士目指すんだったら、そこが一番いいと思ったからよ。新一が東都以外の大学に行くんだとしても、わたしは東都に行きたいんだから!』
『・・・なら、いいんだけどよ』

 なら・・・いいんだけど・・・?

 強がって、自分の思いを読み取られたくなくて、思わず口にしてしまった本心とは程遠い蘭の言葉に対し・・・新一は、ほっとしたように、そんなふうに言ったのだ。

 その一言で、ますます蘭は言えなくなってしまった。
 新一と、同じ大学に行きたいから、東都を受けるのだ、という言葉を。
 新一の進路しだいで、自分の進路を決めようとしているのだ、ということを。

 だから、あくまでも東都にこだわって、後期受験も東都に願書を出したのだということは、どうしても言えなかった。
 そんなことを言えばきっと新一は、『何も東都じゃなくたって、弁護士目指すんだったらいい大学はいくらでもあるだろ?』と言うに違いない。・・・蘭自身でさえも、そう思うくらいなのだから。

(・・・強いね、園子は)

 小さな無数の蕾を実らせる桜の枝を見つめながら、蘭は心の中で呟いていた。
 自分の心に正直に、自分の道を選ぼうとしている園子が、とても羨ましく思えた。

 わたしには、できなかった。
 新一と離れるのが怖いから、嫌だから・・・という理由で、自分の将来を選ぼうとしている自分自身の気持ちに正直になることが。そんな自分を認めることが。
 だから、新一に言えなかったのだ。
 弱い自分を知られたくなくて。
 情けない自分を見られたくなくて。
 ・・・強がるしか、なかった。

 明日の後期試験もだめだったら・・・前期がだめだったのだから、後期で合格できる可能性なんて、ますます低いのだけれど、とにかく後期が不合格だったなら・・・そのときは、新一にはずっと言わないでおこう・・・後期も東都を受けてきたということを。
 後期は別の大学を受けて、でも合格できなかったのだ、とだけ報告しよう。

 そして、もし後期で合格することができたなら・・・そのときは、ちゃんと新一に言おう、と思った。
 どうしても東都に行きたかったから、内緒で後期も受けていたのだということを。
 どうしても・・・どうしても、新一と同じ大学に、行きたかったのだ、ということを。

 まだ蕾でしかないこの目の前の桜に、自分たちの姿を重ね合わせる。
 綺麗な花を、咲かせることができればいい。
 ・・・けれど、その花が本当に綺麗なのかどうかは、開いてみなければわかりはしないのだ。

 蘭はゆっくりと、その大きな桜の木のそばを離れた。
 明日は、蘭の運命を決めてしまう試験を、受けに行く。
 


***
 


 暖かな陽気に急かされるように、桜の花はその固い蕾を徐々にほころばせ、零れるように見事に咲いてゆく。

 桜というのは、本当に不思議な植物だと思う。
 つい10日ほど前には、この木の枝には何の色もついてはいなかった。それが今では、空に広がる青いキャンパスの上に、ピンク色の絵の具を塗り散らかしたように、鮮やかな花が咲き誇っているのだから。
 一つ一つは薄い色素の小さな花でしかないというのに、無数に寄り集まったその塊の、なんと見事に鮮やかで美しいことか・・・。

 桜の本当の見頃は、実は満開になる少し手前の時期なんだよ・・・と、誰かが訳知り顔で言っていたのを思い出す。
 その理由は、満開になったと思った次の瞬間には、もう桜は散り始めてしまうからだ・・・ということらしい。

 でも、蘭はそうは思わない。
 風に乗って舞い散る花びらだって、とっても美しいと思うから・・・。
 満開の時期を過ぎ、ピンク色の小さな花びらが少し強い春の風に吹かれてひらひらと舞い落ちているこんな時期の桜が、蘭は一番好きだった。

 特に、この場所。
 提無津川の河川敷にずっと続く桜並木。
 歩道の両側に行儀よく並ぶ比較的若い桜の木の枝が、道の両側から歩道の上へと低くせり出して、まるで桜のトンネルのようになっている。
 川面の上を吹き渡る少し冷たい強い川風が、満開の時期をわずかに過ぎた桜の花を勢いよく散らせ、その無数の花びらを青空の中に舞い上がらせるのだ。
 そんな桜並木のトンネルの下、まるでボタン雪が舞い散るような花びらの雨の中を、大好きな人と一緒に歩くのが、蘭の毎年の楽しみだった。
 ・・・ずっと、大切な幼馴染として。そして1年前は、初めて恋人同士として・・・。

 けれど、今年は。

(・・・サクラチル、か)

 花びらのシャワーの中、ゆっくりと歩を進めながら、蘭はぼんやりと空を見上げた。川風に吹かれた花びらが、蘭の顔の上にもひらひらと降り注いでくる。

 いったいどこの誰が最初に、試験の合否を桜に例えるだなんて、無粋な真似を始めたのだろう。

 合格すれば、桜咲く。
 不合格なら、桜散る。

 こんなに綺麗な花びらの雨が、そんな悲しい出来事に例えられるだなんて・・・あんまりだと、思うのだけれど。
 去年まではただただ綺麗だなあと思って見ているだけだったこの光景を、今年はこんなにも切なくて、身をつまされるような気分で見つめることになろうとは、思ってもいなかった。

 ゆっくりと桜並木の中を歩く蘭の右手の中には、10日前とは別の郵便物が握られていた。
 東都大学法学部・・・・・・その後期試験の、不合格通知である。

(・・・・・・覚悟してる、つもりだったんだけどな・・・)

 前期試験が不合格だった時点で、東都大学への入学はほとんど諦めていたはずだった。
 後期試験は前期試験よりもずっと難しい・・・。だから、前期の不合格者が後期で合格できる可能性は、よっぽどのことがない限り、ほとんどありえないのだ。
 それでも、その万が一の可能性にかけて、蘭は後期試験に臨んだ。
 可能性は、万が一・・・と、わかっていた、はずなのに。

 思った以上にこの不合格通知にショックを受けている自分が、いた。

 都内でも有数のお花見ポイントであるこの河川敷には、平日だというのにたくさんの家族連れやカップルが集まってきている。
 美しい桜に歓声を上げ、楽しげな笑顔で並木道を行き交う人たち。
 すれ違うそんな人たちを目にすることさえ、何だか辛くなってしまい・・・蘭は知らず知らずのうちに並木道から逸れ、河川敷に広がる芝生の上を、川のせせらぎが聞こえてくる方へと足を向けていた。

 川面に反射する陽の光がきらきらと鮮やかで。
 心はこんなに苦しいのに、どうして世界は、こんなにも美しく輝いているんだろう。

 澄み渡る青い空も。
 舞い散る桜吹雪も。
 柔らかな陽の光も。

 すべてが、蘭の気持ちとは正反対の場所にあるような気さえしてくる。

 何が、こんなにも辛いのか。
 ・・・考えるまでもない。
 新一と・・・離れてしまうこと、が、何よりも、ショックなのだ。・・・合格とか、不合格とか、じゃなくて。

 物心がついたとき、そばにはすでに新一がいた。
 幼稚園も同じ。
 小学校も中学校も、同じ。
 高校も、同じで・・・一緒にいるのが、当たり前だった。
 それがあまりにも当たり前すぎて、新一に対する自分の気持ちが実は恋心であったのだということにすら、なかなか気付けなかったくらい。
 そしてそれを自覚したときには、もう自分でもどうしようもないくらい、新一のことが好きになっていた。

 気障でカッコつけで、推理バカなところも。
 優しくてカッコよくて、頼りがいのあるところも。
 意地っ張りで素直じゃなくて、強がりなところだって。
 全部・・・好きになっていた。

 高校2年生になってすぐ、厄介な事件を追いかけて、しばらく姿を消してしまったときだって、・・・実は姿を変えて、ずっとそばにいてくれた。
 いつだってどんなときだって、すぐ近くで見守っていてくれた。
 一緒にいるのが、普通のことだった。

 だから・・・考えてもみなかったのだ。
 新一と、別々の道を歩いていかなければならなくなる、なんてことを。

 ううん、違う。
 考えていなかったわけじゃない。
 新一は探偵になりたいのだし、蘭は弁護士を目指そうと思った。その時点で、二人の進む道はすでに分かれているのだから。
 けれど、別の道を進んでいきながらも。
 ・・・ふと隣を見れば、そこには悪戯っぽく笑う新一が、同じ歩調で歩いてくれているんじゃないかって・・・蘭は、勝手にそう思い込んでいたのだ。

 そして、あらためて思い知らされる。
 今までずっと新一と一緒にいられたことは、実は当たり前でもなんでもなくて・・・とても幸運なことだったのだということに。
 その証拠に、こんなにも簡単に、それは「当たり前」ではなくなろうとしている。
 4月から、新一は東都大学に進学する。
 そしてその隣には・・・蘭は、いないのだ。

 川面を見下ろす芝生の上に、力が抜けたように蘭は座り込んでしまった。

(・・・わたし、こんなにも・・・新一がいないと、だめなんだ・・・)

 新一と同じ大学に行けない。
 そのことが、こんなに辛いなんて。
 当たり前のように隣を歩けないことが、こんなにも悲しいだなんて・・・。

 だって、どう頑張っても見えてこないのだ。・・・新一のいない大学に、一人で通っている自分の姿が。
 蘭のいない大学に一人で通っている新一の姿は、簡単に脳裏に思い浮かべることができるのに。

 ずっと握り締めていた不合格通知を、蘭はぴり、と、破いていた。

 ぴりぴり、ぴり。

 細かく細かく、その紙切れを破りつづける。
 小さな紙片になってしまったそれは、強い川風に乗って、蘭の手の中からふわりと飛び立ってゆく。・・・まるで、桜の花びらのように・・・。

 わたしは、こんなに情けない人間だったんだ。
 新一がそばにいないと、ちゃんと立ってもいられないくらいに。・・・そのことを、思い知らされる。

 飛び立つ紙切れを切なげに見送って・・・やがて、そのすべてが蘭の視界から消えたとき。

 背後から、悪戯っぽい口調で声をかけられた。

「・・・んなとこにゴミ捨てたら、環境破壊で訴えられるぜ」

 聞き覚えのありすぎるその声に、信じられないという思いで勢いよく振り返った蘭の視界の中。
 並木の桜の一本に少しだけ身体を寄りかからせて、その人は立っていた。

 舞い散る花びらの雨の中で、優しげな瞳を蘭に向けながら・・・。

「・・・新一・・・っ」

 思わず飛びついてしまいたくなる衝動を、蘭は必死に抑えた。
 


***
 


「・・・なんで、こんなとこにいるのよ」

 何とか「泣きそう」な衝動も、「飛びつきたい」衝動も抑えこみ、気障ったらしく桜の木の幹に腕をかけて寄りかかっている新一に対し、蘭は精一杯の強がりで、不機嫌そうな声を装った。
 そんな蘭に向かって新一は、

「・・・花見」

 とだけ答えて、蘭のほうへと歩み寄ってくる。

 今は、新一の顔・・・見たくないのに・・・。

 心の中で呟いてみても、もちろん新一には聞こえない。
 ゆっくりと近付いてくる新一の姿を見つめながら、蘭は唇を噛んでいた。

 今、間近で新一の顔を見てしまったら、きっと我慢できずに泣いてしまう。
 そうしたら、どうして泣いたのかと、新一に尋ねられてしまう。
 尋ねられたら・・・答えられないから。

 だから、近くに・・・来ないで・・・。

 けれど蘭の声は、当然、新一には届かない。
 一歩、また一歩と新一は近付いてくる。・・・歩み寄る新一の背後、桜のピンク色が、青空と同じ色の新一のシャツの色を鮮やかに際立たせて、まるで一枚の絵のようだ、と蘭は思った。
 芝生の上にゆっくりと立ち上がると、川風に煽られた花びらが、二人の周りをくるくると舞っていた。

 こんなにも、近くにいるのに・・・4月からは、遠くへ行ってしまう人。
 園子のように、何もかもを投げ捨てて追いかけていけるものなら・・・。

 あともう少し近付いたら、ほんとに泣いてしまう・・・という、その限界点を間近に感じ、蘭はますます唇をぎゅっと噛み締めた。
 ・・・俯いてしまいたいのに、新一の顔から視線を逸らすことができなかった。

 そんな、今にも涙を溢れ出させようとしている蘭の目の前で、なぜか新一がゆっくりと両手を差し出してくる。
 そして次の瞬間に、

 ぽんっ!

 ・・・と、何かが弾けるような音。
 その直後に、蘭の視界に飛び込んできたものは・・・。



 


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