〜〜Zephyranthes〜〜
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AM9:42
廃工場内、車の中。
「!?」
「っ!」
工場の外からの銃声に思わず身の毛がよだった。
俺とエレンは反射的にハンドルの影へと身を隠す。
だがこれは、俺達に向って撃たれた物ではない。
音は工場の外から、しかも明後日の方向へと抜けている。
そして俺達は”なんの音か”の察しもついていた。
「誰かがトラップに引っかかったわね……」
「……そのようだ」
互いに緊張した声で話し合う。
トラップ……
昨日回りに仕掛けたものの一つ。
正確には殺傷トラップではなく、音による一種の警報装置だ。
仕組は簡単。工場の回りにいく本かのワイヤーを張り巡らせ、ある種の結界を
作り、その先を近くに配置した銃のトリガーに結びつける。
ワイヤーの高さは地面から10cm程度にしておき、脚がかかる程度だ。
こうすると、侵入者がワイヤーに気付かずに引っかかると反動で銃のトリガー
が引かれ、銃声によりどの方角からやってきたか分かるわけだ。
”しかし…念のための用心が役に立つとは思ってなかった…”
正直なところぞっとしない。あくまで気休めのつもりの処置が役に立ってしま
ったのだから。
だが此れでハッキリした。
外には何物かが接近して来ている事が。
そして多分……俺達を狙っているという事も。
「…………」
「…………」
一瞬、俺はエレンを見た。
エレンも俺の方を見た。
ほんの僅かな間で、視線だけの会話を行う。
俺は工場入り口の方を見て、エレンは裏口に視線を晒せた。
そして微かに頷きあう。
次の瞬間、静かに、だが迅速に車から降り、各々の見た方向へと走った。
だがいく寸前、俺はふと不安に駆られた。
”今のエレンに襲撃者を迎え撃てるのか?”
今のエレンに侵入者を撃退する事が出来うるか。
銃もまともの撃てるか分からないのに。
そう思った瞬間、エレンの方が俺に声を掛けてきた。
「玲二」
「えっ?」
「……」
振り返るようにエレンを見た俺だが、エレンの方はただじっと俺の顔を見てい
るだけだった。
じっと何かを訴えるように、エレンは俺を見る。
俺は何か分からずただ見返すだけだった。
ほんの5秒ほど、俺達は見詰め合う。
そして……
「……大丈夫だから」
そう囁いて、エレンは鮮やかな笑顔を残し裏口へと走っていった。
あの、100%の笑顔を残して。
「……」
俺は何かを言いたかったが、結局言葉にはならなかった。
だから心の中でそれを囁き、俺も迎撃に向う事にした。
一刻も早く、侵入者を倒す為に。
AM9:48
廃工場入り口前、約30m
銃声が鳴り響いてから、きっかり1分後。
其の銃声が鳴り響いたすぐ近く、少し地面の窪んだ位置に2人の男が居た。
独りは黒髪の男で隠れている窪地にうずくまり、もう一人、金髪の男は緊張し
つつ辺りを探っている。
2人とも脂汗をびっしりと額に浮かべ、両手でベレッタを構えている。
男たちは焦っていた。
「な、なんだよ、い、今の音っ……」
「知るか…震えてないで辺りを探れっ!」
「わ、分かってるよっ」
突然響いた銃声。
しかも自分達のすぐ側での。
震えている黒髪の男は、其の銃声が自分に向けられたのではないかと動転して
いた。
だからその少し前に、細いワイヤーを踏んだ事にすら気がついていなかった。
対して金髪の方は、其の銃声は自分達の向いていない事を分かっていた。
だが、何かが近くに有る、もしくは居るのではと感じていた。
「ち……奴等に感づかれたな…」
「お、落ち着け、落ち着け……だ、大丈夫だ……」
「……お前こそ落ち着け」
相棒に言うというより自分の心を心を落ち着かせる為に、黒髪の男は繰り返す。
だがいくら繰り返しても鼓動は収まらず、呼吸も高まっていく。
銃を握る震える手は、血の気が失せて真っ白になっていた。
「だ、大丈夫だ……あ、相手は俺と同じくらいのガキだ……し、心配ない」
男――と言うよりは青年に近いほど、彼は若かった。
彼はリズィの配下に就いて間も無い、いわゆる新参者だった。
本来ならリズィの下につけるほどの年齢でも実力でもない彼だが、今回は数合
わせ的にその中に居た。
数さえ揃えば何とかなるだろう……
其の程度の気持ちでインフェルノが揃えた面子、その中の一人だ。
リズィにとっては厄介者を囲ったような事であり、いちいち素人臭い彼の行動
を危なっかしくて見てはいられなかった。
「へ、へへ……そ、そうさ、か、簡単な任務さ」
だが、黒髪の男にとって見れば出世のチャンスと取れただろう。
インフェルノの実働部隊は、上からの覚えも比較的良い。
しかも今回の任務の、彼にとっては簡単に思える物だった。
”自分より若い男女2人を捉える、もしくは抹殺する”
餓鬼2人を殺す……このくらいなら訳はないだろう。
何故だか知らないがインフェルノが躍起になって捜すほどの相手だ。
自分がやれなくとも、其の面子の中にるだけでも必ず恩賞は有る。
彼はそう踏んでいたのだ。
実際のところ、リズィはかなり渋った。
が、やる気の有る者を邪険にすると志気が下がる。
争いにいく時にそうする訳にも行かない為、仕方無く承諾したのだ。
絶対に”ターゲットの近くには、寄らない様に”と言明して。
黒髪を押さえる為、彼と同年代で克つ、実力もそこそこな男を4人付けて。
それでも危うい……リズィはそう思っていたのだが。
だが……
「な、何がファントムだ……そ、そんなの噂に、き、決ってるじゃないか……」
彼は、ファントムを討つ気で居た。
こんなチャンスは滅多に無い、こんな美味しい話は二度と無い。
こっちには味方だっている、たかが2人程度殺せない訳無い。
彼には出来ると思った。
実際、今横に居る金髪も悪い気はしていなかった。
一回の兵隊で収まるよりは出世したいと思うのは、組織に属する者にとっての
純然たる夢だからだ。
「た、たかが暗殺者の1人や2人、ど、どおってことねえさっ。こ、こっちは5
人も、い、いるんだっ」
ブツブツと独り言を繰り代えす黒髪の男。
そうして居ないと恐怖に押し潰されてしまいそうだったからだ。
だが、金髪の方はそんな黒髪の苦々しく見詰め、口を開いた。
「おぃ……少しは黙れっ。お前も回りを捜さないかよ」
「わ、分かってるって言ってるだろっ!」
パニックの一歩前になりつつ、辺りを見回す。
彼なりに隠れているのだろうが、其の動きは稚拙でおぼつかなかった。
何より、動きに切れが無い。
隠れる基本も、警戒の方法もまるでなっていない。
金髪と比べるとより際立つ。
私兵にしてはこなれている金髪に対し、黒髪の男は明らかに素人であった。
「じゅ、銃も有るんだっ、へ、へへっ。あ、当たればどんな人間だって……」
確かにそうかもしれない。当たり所次第では必殺の兵器であるのは確かだ、
だが、銃という武器を手にした事で、彼は絶対的な力が有ると錯覚していた。
より深く言えば、彼はその、銃を手にしたいが為に裏社会に足を突っ込んだよ
うな物だった。
銃を持つ、それだけの事で世界で一番強くなったように錯覚できるからだ。
だから、彼は銃を持つ事がどういう事か、知らなかった。
それは、彼にとっては最大の勉強不足であり……
不幸だった。
「ど、何処からでもきやがれっ! ぶっ殺してやるっ!」
「黙れっていってるだろっ、大声を出したら感づかれるだ…」
ヒステリックに金髪が叫んだとき。
ヒュゥ…
「えっ…………」
黒髪は、金髪の背後になにかの気配を感じた。
金髪の影が起き上がった、そんな風に背後に何かが現われた。
次の瞬間。
ドスッ――
鈍い音とともに、金髪の首元に何かが当たった。
いや、突き立った。
「がっ!?」
「へ……?」
苦悶の表情を浮かべる相棒を、黒髪の男は惚けたように見詰める。
”なんだろう…?”
黒髪は不意な出来事に惚けてしまうが……すぐ、熱いと感じた。
暖かい何かが顔に降りかかってくる。
視界が悪くなってよく見えないが、相棒の首元から液体が吹き上がっているの
が見えた。
「な……ぁ……」
赤い……そして鉄の味がするそれは。
相棒の血だった。
そして、其の相棒が自分の方へと倒れ込んできる。
反射的に肩で受け止めると、肩口に大量の血が降りかかってくるのを感じた。
相棒は、もう息をしていなかった。
「ひ…………あぁぁっ!」
相棒が喉を切り裂かれて殺された。
自分の目の前で死んだ。
その事実に、精神が追いついた時。
自分の背後にも何かがいると、直感的に感じた。
直後。
ドスッ
すぐ近くから響く、同じ様な鈍い音。
次の瞬間、喉元がやけに熱いと感じた。
喉に違和感を感じた。
そして、何かが喉元から流れ出る感触を味わった。
「ひ……かっ……ぁ……」
”声が出ない、なんでだ? お、俺は一体……”
惚けたように――いや、霞むように思考が落ちていく最後の瞬間。
何気なく後ろを振り返ると…
自分より若い青年が一人、自分を悲しい目で見詰めるのを見咎めた。
それは、リズィが見せた写真の中に有った顔だった。
「ファ…ン……ト……」
消え逝く意識の端でそれだけ叫んだのが、彼の臨終の言葉だった。
黒髪の男は、金髪の相棒を肩に掛けたまま事切れていた。
AM9:50
廃工場裏口付近
「…………」
裏口のすぐ脇にある木箱の影。
エレンは其処に陣取って、息を殺していた。
表を除けば、工場への入り口はこの裏口しかない。
だがエレンの居る場所は裏口からは死角になり、そうそう発見される事はない。
逆にエレンの方からは侵入者が丸見えになる。
ヒッティングには最適なポジショニングといえる。
「……」
自分の息すら聞けなくなるほどに、エレンは集中していた。
手にしたパイソンの重さも感じない。
全身の余分な力は抜け、一瞬でどの方向へも動く事ができ、それよりなお早く
引き金を引ける自信があった。
ただじっと耳を澄まし精神を研ぎ澄ませ、何物かが来るのを待っていた。
だがエレンは、”来ないで”と心の中で思っていた。
今のこの体勢、この行動は、今まで培ってきた経験がさせているだけであって、
エレン本人の意思とは無関係といえた。
反射的になら引き金は引けるかもしれない。
だが”自分の意志”では、きっと引けない……エレンはそう考えていた。
”だめ……まだ……引けない……殺せなぃ……”
状況が状況だったら、エレンは泣き出していたかもしれない。
それほどまでに心は悲鳴を上げていた。
許されるならばここから逃げ出しすらしたかった。
唯の試し射ちなら何とか的へ向って撃てる。
昨日の勝負だって勝ったのはエレンだ。
だが。
一旦其の先に”人を殺す”という意図を含ませると手は震え、方向は定まらな
くなる。
まだエレンは”人を殺める事”を完全には割り切れてはいないのだ。
「……くっ……」
額に滲んできた汗がエレンの頬を伝う。
だがそれを振り払う事は出来ない。
今現在、体が震えない様にしているだけでも僥倖といえるからだ。
身じろぎするだけでも今の体勢が崩れてしまいそうだった。
震えないで居られるのは、一重にそれが意志とは切り離されて成っているから
だった。
何より、玲二に”大丈夫”と言ったからだった。
彼を心配させたくない、負担を掛けたくないという意志が、ギリギリで彼女の
心を支えていた。
だが、少しでも意識して身体を動かせば、震えは止まらなくなるだろう。
それほどまでに危ういバランスの中で、エレンはただじっと待っていた。
敵がドアを開けて出てくる其の時を。
自分が”再び人を殺めるかもしれない”其の瞬間を。
押しつぶされそうなプレッシャーに耐えつつ、エレンはじっと構えていた。
AM9:51
「……はぁ」
血のついたナイフを振り払いつつ…
糸の切れた操り人形の様に折り重なる男達を見て、俺は浅くため息を吐いた。
そして遺体を隠すように、窪地の中へと動かす。
「前哨の2人、か…?」
俺は回りを見回して一人ごちる。
当たりに散る足跡の感じから、俺は敵が4,5人だと直感した。
此所の2人を除くと、残りは2,3人といったところか。
「……」
”あと2,3人……殺すのか?”
不意にそんな言葉が頭を過ぎる。
実際……つい今し方2人の男をこの手にかけた。
そう思うと、何とも言えない哀愁が俺の中を駆け抜ける。
「銃は遊びの道具じゃない。持つからには殺されることを覚悟をするんだ……」
死んだ男達に語り掛けるように、俺は一人ごちた。
もっともらしい言葉……だが、何処かうそぶいて聞こえた。
本当にそう思っているのかどうかが、自分でも分からない。
生き残る為とはいえ、殺す事には慣れられない。
いや、慣れたく無いのかもしれない。
どう言いつくろうと、人を殺める事は罪だ。
誰よりも俺がそう感じている。
暗殺者其の物だった昔ならともかく……
今の俺は其の事実から目を背けられない。
だが、俺は命に代えてエレンを守ると決めた。
だからエレンを守り自分が生き残る為には、殺す事を躊躇わない。
そうしなければ殺されるのは俺達なのだから。
しかし、其の事と罪を感じるのはまた別だ。
人を一人殺めるたびに、手に血が染み込み、体が重くなる気がする。
殺した人間が俺の背に圧し掛かるような錯覚を覚える。
此れは俺の犯した罪の重さだと思う。
重い、辛い、苦しい…これをおろせたらどんなに楽だろうか。
そう思った事は1度や2度で済まない。
だがそれを下ろしてしまったら、俺は生きていく権利を失う気がした。
人の命を奪って生き延びて居るのに、それを放棄して良いのか?
俺は、良いとは思えない、思いたくない。
だから人を殺める事は止めなくとも、慣れる事はない様にしよう。
自らが感じる罪の意識だけは絶対に忘れないでおこう。
この背に背負った罪からは、目を背けない様にしよう。
それが、俺が暗殺者でなく、人だという証明に思えるから。
”…………らしくない。今は戦場だぞ?”
「ふう。さぁ、次はどこだ?」
ふと湧いた甘い感傷を振り切るように、俺は一人そう呟いた。
同時刻
裏口外周辺
一人の男が裏口の前に潜み、外周に沿うようにあと2人の男がやってきた。
計三人、みな物腰は似たり寄ったりだが、正面にいた2人よりは格段に優れて
いた。
彼等はインフェルノ直属の戦闘部隊の一員だ。
彼等はリズィの子飼いでもあり、其の腕前は彼女も認めるところではあった。
皆遅滞なく辺りを探り、進入口を捜そうとしていたのだ。
裏口に居た男が、視線と手振りで他の入り口はないかと問う。
他の2人は、ここか正面しかないという風に答える。
すると入り口の前にいた男……3人のリーダー格はしばし考えた後…
”進入するぞ”というふにあごを裏口に向けてしゃくる。
他の2人も僅かにうなずく。
それを見届けてから、リーダー格の男がそっとドアの取ってに手を掛けた。
聞き耳を立ててみる…居るのか気配を消しているのか、物音は確認できない。
用心の為に辺りを見回す…妙な仕掛はなさそうだ。
ゆっくりと捻ってみる…鍵は……掛っていない。
それが分かった時、男達の顔に緊張の色が浮かぶ。
”まず間違いなく、誰かが待ち構えている…”
そう認識したのだろう。
男達は懐から各々銃を取り出し、セーフティーロックに指を掛けた。
初弾は既に装填済み。後はセーフティロックを外して引き金を引けばすぐ撃て
る、所謂ダブルアクションという状態である。
もちろん、銃を取り出す時も物音を殆ど立てない。
しかし、いくら警戒しても進入する方が不利であることは明らかであり、男達
もそれが良く分かっていた。
ドアを開ければ、死が待っている…
覚悟はしていても、其の事実を受け止めるにはやはり勇気が要る。
そのため、ドアを開くまでに、1分の間が必要になってしまった。
AM9:54
廃工場内、裏口
カチャリ
小さい音と共に裏口のドアがゆっくりと回りはじめる。
それを確認した瞬間、エレンの身の毛がよだった。
”入って……来る……敵が……くる”
あと数刻も立たず、自分の目の前に敵がやってくる。
自分や玲二の命を取りに来る相手が、このドアをくぐって来る。
殺さなければ、殺されてしまう。
死ぬ……相手か、自分が……
相手の手で自分が。
もしくは……自分の手で、相手が。
死ぬ、殺す、殺される。
誰が? 自分が? 相手が?
それとも……玲二が?
「……っ!」
”うっ……あぁぁっ!!!”
その事を認識した時、エレンの中のバランスがついに崩れた。
一気に震えが足から這い上がり、汗が噴き出す。
視界までが揺れ始める。
だが辛うじて、声を上げることと腕まで震えさせることはしなかった。
ただそれは、声を上げることで、銃を撃てなくなるということで、自分の死が
早まると直感したからなだけだ。
最早本能的な恐怖のみがエレンを支配し始めていた。
自分の、そして大切な人の死ぬビジョンが鮮明にエレンの網膜へとちらつく。
自分が死ぬ事自体はさほど怖くはない。
だが…玲二が死ぬ姿を思い浮かべると、震えが止まらない。
そして、自分が死ぬことで玲二が哀しむことと…
玲二ともう会えなく成ることが怖い。
何より、また人を殺めることが怖くてたまらない。
「う……うぅっ……」
エレンが限界にきそうなのを尻目に…
無常ともいえるように、ドアが開かれた。
ほぼ同時刻
工場内部、正面口の影
残りの敵を捜していると、幾つかの足跡に気付いた。
靴跡の感じから、その数約3人……多分ここに来ている残りだろう。
ただ……其の足跡の感じに何か違和感…いや、胸騒ぎを覚える。
自分やエレンの足取りに、何処と無く似ているのだ。
自分達よりも稚拙ではあるが、明らかに相応の訓練を受けたものの歩調だ。
其の流れは……裏口に向っている。
「……不味いっ!」
それに気付いた瞬間、弾けるように俺は駆け出していた。
走りながら俺は冷静に思考を巡らせる。
だが其の内容はある種絶望的だった。
さっき仕留めた2人の腕前から残りも同程度たと踏んでいたが…
もし其れなりの腕前だったとしたら、今のエレンでは持たないかもしれない。
それ以前に……
”まだ銃もろくに撃てなかったとしたら……身を守ることが出来なかったとし
たら……エレンの身が危ないっ!”
エレンは大丈夫と言ったが、何処まで信じて良い物か。
大丈夫だとは言っていたか、早々簡単に治るほどエレンの心の傷は浅くない。
本来ならば、パートナーは信頼してしかるべきなのだろうが…
今の俺にとっては、エレンはそれだけの存在じゃない。
”だからこそエレンの言葉を裏切ってでも行かないと…いや、行きたいっ!”
何処か矛盾する思考を一次押し込め、俺は走った。
開けた工場内部を抜け、車の横を過ぎ、横手へと曲がったら裏口が見えた。
そして其の光景を見た瞬間、思わず血の気が引く。
其の光景は、今まさにエレンが撃たれようとしていたのだから。
AM9:55
僅かに時間は戻り
男達の一人がゆっくりをドアを押し開けている時。
エレンは底から死角になるはずの位置で構えていた。
そう……ハズだった。
ドアが開け放たれた瞬間、エレンが彼等の動きを見落として居なければ。
入って来た瞬間に撃てていれば。
いや、彼等の動きがエレンの予想を越えていたといった方が良いだろうか。
それほどに彼等の動きに迷いがなった。
ゆっくりと開いていくと思っていたドアがいきなり弾け。
3人の内の一人がエレンの射線上に立つように素早く入り込む。
その間に残りの2人が辺りを瞬間的に探った。
撃たれることを、仲間の死を覚悟の上での進入方である。
対して、緊張しきりしかも脅えていたエレンには男達の動きがあまりに早く見
えた。
本来のエレンなら眼で追えたであろう男達の動きに、一瞬反応できない。
そのため、動き出すまでに微妙な時間のずれが生じた。
其の僅かな好きの間に、死角に居たはずのエレンが逆に補足される。
男のうち一人が、殆ど反射的に銃を向ける。
その動きに対応して、残りの2人も其の方向へと銃を構えた。
逆にエレンは銃口が向けられたことで恐怖が弾け、身動きが取れなくなってし
まう。
刹那の瞬間、エレンも、そして男達の動きも止まる。
僅かに残った意識で、エレンは男達が銃のセーフティーロックを外したのを確
認した。
AM9:55
一人がエレンに銃を向けるのが視界の隅に入る。
エレンが今まさに撃たれようとしている。
”――エレンが、殺されるっ!――”
それを見た瞬間、殆ど反射的に。
そして意志伝達の何百倍も早く、腕へと電気信号が走る。
腕の狙いは懐のパイソン。
位置を確認する間も無く、また必要も無く腕が銃へと向っている。
その間俺の眼は、残り2人の男が反応するのを捉えていた。
3丁の銃に狙われるエレン。
だが焦る気持ちとは裏腹に、腕の動きは切れを増す。
自己ベストを大幅に更新する速度で俺は愛用にバイソンを抜き、撃鉄を起こす。
そして本能的に狙いを付け…
ここでやっと、エレンの表情を捉えた。
恐怖に引き攣るエレンの顔まではっきりと見て取る。
エレンが撃たれるっ! という思考が脳裏で弾ける。
次の瞬間には、殆ど同時に聞こえる銃声と、反動すら同時に思える速度で。
正確に3発だけ。
.357マグナムを放っていた。
AM8:55
エレンが死を覚悟した瞬間に思っていた事は。
今から死ぬ、でもなく、怖いでもなく。
玲二に逢いたい、だった。
脳裏に玲二を浮かべたい、そう思って眼を閉じた瞬間。
エレンの耳に銃声が飛び込む。
「っ!!」
”撃たれた……私……死んじゃった……玲二……ごめん”
エレンは死を覚悟し、約束を守れなかった事を謝罪する。
が…
痛みも、撃たれた時特有の熱さも感じない。
「え……?」
確かに銃声は聞こえた。
が……傷も無ければ生きてもいる。
それに良く思い返すと、銃声が1発しか聞こえなかったような気がする。
そう思い、恐る恐る眼を開けると…
腹と、胸と、頭を撃ち抜かれた男達が、地面へと倒れ込むのが見えた。
どれも大きく傷口を空けており、しかも的確に急所を捉えている。
赤い血だまりに沈む3人、みな即死である。
”なっ…”
目前に迫っていた死が急に遠のいたショックで、エレンは絶句してしまう。
あまりにも唐突なことであり過ぎたから…
其の瞬間に。
「エレンっ!!」
一番聞きたかった……
そして二度と聞けないと思った声が、エレンの耳に届いた。
AM9:56
「エレンっ!!」
思わず俺は叫びながら、彼女の元へと駆け出す。
この位置からではエレンが動いてるかどうかが分からない。
”もしかして間に合ってなかったら……”
そんな不吉な思いが頭によぎる。
冷静に考えれば銃声は俺が撃った分しか聞こえなかったのだが、そんな事を考
えている余裕は欠片も無かった。
ただひたすらに、エレンの安否が気がかりだった。
しゃがみ込んでいるエレンの前に、俺も腰を下ろしてまくし立てた。
「エレンッ! 大丈夫か!?」
「……玲二?」
「平気か? エレン、怪我は?」
焦った風に立てつづけて問うが、エレンはしっかりした声で答えてくれた。
見た感じ外傷も無いし、撃たれた風でもない。
何処か惚けた風だが、外傷はなさそうだ。
……まに、あった。
「……え、ええ……大丈夫……だいじょう……きゃ!」
俺はエレンが全てを言い終わる前に抱きしめてしまった。
廻した腕に思いっきり力を込め、エレンの髪の毛へ顔を埋める。
エレンが俺の腕の中にいる。
エレンが生きてる。
それを感じられて……どっと気が抜けてしまった。
「良かった……エレン……」
「れ、玲二…?」
いきなりの事だったのだろうか、エレンの方は戸惑ってしまっている。
だが、抱きしめて少しすると…
「……ぅっ……」
短い鳴咽と共に、エレンが涙を流し始めた。
今度は俺にとっていきなりの事だ。
「えっ? え、エレン?」
「……なさい……」
「エレン…?」
「……ご……なさい……わたし……わたし……」
鳴咽の合間に、エレンが謝罪の言葉を挟む。
気丈なエレンの流す二度目の涙。
其の意図がどこに有るか俺はすぐ思いついた。
”大丈夫と言って大丈夫じゃなかった事を、謝ってるのかい?”
その言葉が脳裏に浮かぶが、俺は口にしなかった。
俺の方こそ、彼女の言葉を信じてあげなくて此処にいるような物だ。
何も言う権利はないし、そんなつもりはまったく無い。
だから、代わりにそっとエレンの髪を撫でてあげた。
まるで子供をあやすように。
「良いんだ…無理しなくて良いから」
「でも……もう少しでわたし……」
「守る……って約束したろ?」
「っ……」
「エレンが不調だったら、その分俺が頑張るから…だから泣かなくていい」
「……」
「分かった…?」
俺の問いに、エレンは涙で濡れた顔を向けてくる。
そんな彼女の目元を、俺は指で拭ってあげた。
するとエレンは、ほんの少しだが微笑んでくれた。
その笑顔を見て俺も笑みを漏らす。
「ん……さ、呑気にしてられない。脱出しよう」
「……ええっ」
空元気、なのだろうが…エレンはハッキリした声でそう言ってくれた。
AM10:01
工場内、車外部にて
脱出の準備はそもそも終わっている。
車に乗り込んでエンジンをスターとさせれば、すぐにでも出ていける。
が、簡単に逃げ出せるとは到底思えない。
倒したあの5人で終い、とは思えなかったのだ。
「前哨が2人で、後衛が3人……ただ、出方を見る限りはそれだけって言う風じ
ゃない。車は1台しかないけど……何か引っかかると思わないか?」
「そうね……あの人数でわたし達を討つつもりだったとしたら、手段が杜撰だっ
たわね」
幾分落ち着いていつもの調子を取り戻したエレンも、そう言ってくる。
今俺達の前には、襲撃者の乗り付けてきた車から押収した武器が並んでいた。
サブマシンガンが3丁に、ショットガンが2丁。そしてそれらの弾が何箱か。
物騒なことに折畳式のハンドバズーカまで有る。
だが襲撃者自身は、それらの武器を帯びていなかった。
誰もがハンドガンのみで武装していた。
襲撃者の装備と、車の中に残っていた武器。
俺達を討つつもりなら何故此れを使わなかったか。
このことが意味する所は……
「本隊が……別にいる」
「そういう事らしいわね……しかも、多分すぐ近くに」
「つまりはもう時間も無く、逃げ場も無いって事か…」
「…………」
その本隊の数は分からないが…きっと、相応の量になっているだろう。
なかなかにぞっとしない。
「でも……いくしかない訳よね……」
「だな……ここで篭城しても、数で押されれば持つ訳はない。だったらムチャで
も、一転突破を狙うしか…」
「ん……」
はっきり言えば、自殺行為なんだろう。
方法が他に無い訳でもないんだろう。
だが……
”エレンを個人で置いておけない以上、こうする方が良い”
戦力を持たない今のエレンでは、他の方法を考える事が難しい。
ましてやエレンを一人にしておくなんて、俺自身の精神状況が宜しくない。
だったら、ムチャを承知でも2人で正面から切り込む方が良い。
一緒ならば、彼女を守ることが出来るかもしれない。
エレンを置いていく……
と言うことをエレンが望まない以上、そうする以外に考えられなかった。
「下手をしたら、一緒に死ぬことになるけど……良いのかい?」
「ん……死ぬ気は、無いわ…それにもしそうなっても、玲二となら怖くないから」
「良い返事だ……じゃあ行くか」
「ええ」
悲壮な状況……
しかもついさっき殺され掛けたと言うのに、エレンは笑顔を見せた。
俺も、同じ様に笑っていた。
死は、恐るべき事じゃあない。
怖いのは、大事な人と逢えなく成ることだから…
だから一緒に行けるのなら、死地に向おうとも怖くない。
”もっとも、エレンの言った通り死ぬ気はないが…”
悲壮にまみれる思考を振り切り、俺はキーをスタートさせた。
その時……エレンはそっと後ろを振り返り。
「Good by… My Home…」
さよなら、我が家よ……
そう呟いていた。